2003年5月3日 新潟日報掲載

映画「阿賀に生きる」11周年

あの世とこの世橋渡し
徳太郎さんを偲んで


旗野秀人(安田町水俣病患者の会事務局)

在りし日の徳太郎さん
(ビデオ「阿賀野川・昔も今も宝もん」から)

 徳太郎さんも逝ってしまった。これでこの集落の男衆も靖雄さんひとりになってしまった。
 「人間てこんげに簡単に逝くもんだろうかね」残された連れ合いのミドリさんはその突然の死を嘆いた。
 3月22日、大阪からやってきた大学のみなさんに昔の阿賀野川のようすや川筋での暮らしぶり、そして新潟水俣病を語って聞かせていた徳太郎さんだった。その3日後の出来事である。昭和3(1928)年生まれの74歳は患者の会ではまだ若手で思わず油断をしていた。
 ふた七日ほどたった冷たい雨が降る晩、今後について患者の会の寄り合いがもたれた。正直なところ、ここでの運動もいよいよ終わりかと半ば覚悟をしていた。唯一の男衆となった靖雄さんも昔、川舟の船頭だった実直で寡黙な人。その靖雄さんが集落のまとめ役として徳太郎さんの後継を承知してくれたのである。
 思えば、30年前に水俣病未認定問題の運動のはじまりをつくってくれた栄作さんや丈夫さんも阿賀の流れや風を読み、川の生き字引といわれた川舟の達人ではあったが、人前で話すことは大の苦手で運動などとは無縁の人たちであった。
 通夜の日、徳太郎さんの息子さんに弔辞を依頼された。前の晩にビデオ作品「阿賀野川・昔も今も宝もん」を見て、はじめて父親の残した仕事の一端を知ったと言う。
 4、5年ほど前からだと思う。徳太郎さんは自ら患者の会の名刺を作り、小中学校の出前授業をはじめ、資料館での語り部や北海道の大学まで出掛ける変貌ぶりであった。
 その仕事ぶりを精いっぱいの感謝を込めて弔辞に託した私だが、不覚にも栄作さんや丈夫さんのくだりでは運動の始まりのころを思い出して言葉がつまり、読み続けることができなかった。
 昨年は映画「阿賀に生きる」10周年祭で盛りあがった恒例の5月の追悼集会であったが、今年はちょうど四十九日の法要も営まれるという徳太郎さんを偲ぶこと、もうひとつ、安田大学民謡古典芸能学科名誉教授という凄い名刺を持っている渡辺参治さんの米寿のお祝いを同時にやりたいと欲ばっている。
 映画「阿賀に生きる」の音楽を担当された経麻朗さんをはじめ、ファン倶楽部の皆さんのご協力で米寿記念CDアルバムの録音も終えた。
 5月4日のお披露目では越後ごぜ唄の金子真由さんをはじめ、東京や大阪の芸達者もお祝いに駆けつけてくれる。また、新潟青陵大学の松村幸子教授からは「患者さんに学ぶ」と題して地域看護学の立場から語っていただく。
 新潟水俣病が公表されて38周年、患者の会もいつの間にかあの世にいる人のほうが多くなってしまった。
 ますます混迷するこの時代だからこそ、懲りずに今年も映画「阿賀に生きる」も上映したい。
 そして、あらためて豊かに生きること、逝くことを確かめたいと思う。