2002年4月2日 新潟日報掲載

映画「阿賀に生きる」誕生10周年

新時代照らす新潟の「宝もん」


旗野秀人(安田町水俣病患者の会事務局)

餅屋のジイちゃんは親せき以上につきあってくれた=撮影・村井勇

 少し黄ばんだ写真が1枚、居間に飾ってある。裏に「阿賀の親子」1988年1月3日、撮影小林茂とある。
 その5年前、たまさかの縁で佐藤真監督との出会いがあり、阿賀の映画づくりの夢を語りあっていた。そして、ようやく小林カメラマンが加わり、3人で力水を飲み「頭がため」をした雪のない正月だった。阿賀の土手をまだ幼かった息子たちを連れて記念に撮ってもらった写真である。
 新潟水俣病第二次訴訟の年に生まれたこの息子も今年、20歳になる。
 思えば私も息子の年ごろに初めて自分の町の水俣病患者の存在を知り、恐る恐るノートを片手に川筋の集落を尋ねてから30年になる。
 先日、久しぶりに会った弁護士に「水俣病も終わりましたね」と声を掛けられた。確かに6年前、苦渋の選択で和解をし裁判所通いは終わった。
 しかし、病苦と差別を背負った患者の日常に変わりはなく、それぞれの地域での運動は振り出しに戻ったのである。
 30年前の第一次訴訟の後もそうだった。私たちが手探りではじめた潜在患者発掘の「地元で水俣病の検診を実現させる会」や認定棄却に対する行政不服の取り組みは、なかなか相手にしてもらえなかった。
 私はこの無駄なような勝ち目のない、積み重ねの中で、裁判や団結ガンバロー的な運動の限界を感じつつ、その被害者一人ひとりの暮らしぶりや生き方の魅力にひかれ、やがて虜になったことを佐藤監督に自慢した。
 水俣病の患者は悲惨で救済してやらなければならないかわいそうな人たち。かかわり始めのころ、若かった私は理想の患者像を熊本の重症患者に求め、目の前にいる地元の患者との違いに戸惑った。
 しかし、足を運ぶうちに目に見えない病苦の深さを知るとともに、一方ではしたたかに生きていく患者の逞しさも知ったのである。
 その日常のありのままが撮れないものか。プロパガンダ的な告発調でなく、登場する患者自身もそして、見る者も心開かれるような、淡々とした映画がいいと思った。
 10年前の4月18日、映画「阿賀に生きる」は県民会館大ホールで産声をあげた。
 スクリーンの自身の姿を照れながらも喜んで見てくれた餅屋のジィちゃん、バァちゃんは映画の完成を待って翌年逝ってしまった。船大工の遠藤さんも鹿瀬の芳男さんも、この10年の間であの世に旅立たれてしまった。
 小さな追悼の集いを舞台となった安田町で毎年開催して今年で10回目。節目の年だからと、仲間の応援もあって少し背伸びをして新潟市での映画祭や水俣資料館での写真展も企画してみた。
 映画「阿賀に生きる」は新潟の「宝もん」だとこんな時代だからつくづく思う。セリフの一言一言、所作の一部始終を五感のすべてで、もう一度確かめてほしい。新しい時代への生きる手がかりがきっとあるはずだから。