| 映画「阿賀に生きる」上映と追悼会9周年 |
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「公害の原点」見つめる
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旗野秀人(安田町水俣病患者の会事務局)
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追悼演説した吉田東伍へあてて、谷中村の残留民総代島田宗三らがしたためた礼状 |
映画「阿賀に生きる」が世に出て9年目、新潟水俣病事件が公表されて36年目、そして政治解決したといわれて今年で6年目。あれほどマスコミをにぎわした大事件ではあったが、さすがに近ごろは記事にもならない。
確かに同志の大半は老いて亡くなり、大きな運動などできるはずもないが、それでもマイペースで今も動いている。
さて、例年5月の連休に映画「阿賀に生きる」の上映と、亡くなられた患者の方たちの追悼会をその舞台となった北蒲安田町で開催しているのだが、9回目を迎える今年、ゲストに「田中正造大学」の坂原辰男さんをお願いした。
野治洪水山銅毒
扶弱折強労一生
超出世間窮達外
河流嶽時義人名
この七言絶句は安田町出身の歴史地理学者吉田東伍が、「田中正造」と題して、足尾銅山鉱毒事件で知られた明治の政治家、田中正造翁の死を悼み、その功績をたたえて詠んだものである。
阿賀のほとりで生まれ、洪水と闘う人々を見て育った東伍にとって、渡良瀬川で起こった足尾銅山鉱毒事件は人ごとではなかった。1913年12月14日、茨城県古河市で行われた正造翁の葬儀で、尊敬する東伍は追悼演説もささげていたのである。
鉱毒被害地の谷中村残留民で正造翁がもっとも信頼を寄せていたという島田宗三は当時、東伍と早稲田大学で教べんをとっていた阿部磯雄(社会運動家)を介して、東伍に追悼演説を依頼した。
その旨を阿部磯雄が東伍にあてた追悼文や、谷中村残留民総代島田宗三らによる追悼演説への礼状などが吉田家から発見されたのである。
今年は正造翁が明治天皇に命がけで直訴してから、ちょうど百年目にあたるという。公害の原点といわれる足尾町と新潟水俣病被災地、安田町が、東伍と正造翁の縁でここに再び百年の時空を越えて結ばれようとは、明治の巨星たちもさぞかし驚いてるに違いない。
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