1999年9月1日 新潟日報掲載

水俣病―語り伝える手だてはさまざまに

新たな運動の模索の中で


旗野秀人(安田町水俣病患者の会事務局)

帯広畜産大学での講演会

 4年前、どうであれ水俣病事件も和解が成立したとき、いよいよそれぞれの地域で患者自身があらたな運動を展開する時代だと思った。流域市町村での写真展や水俣石でのお地蔵さん建立のほかに地味ではあるが公害授業や現地調査などに毎年取り組んできた。
 しかし、年々動ける患者は減り、次々と患者が亡くなっていくのは容赦ない現実だ。長い間「ニセ患者」などと差別され続けた人たちだから、せめて残されたわずかな時間は楽しく、やがて逝かねばならないだろう「冥土」のみやげ話にでもなるような、自慢できる運動を心がけたかった。
 例えば、この夏の「冥土のみやげツアー北海道編」。学生時代に社会学的調査で新潟に入ったSさんはその後、出身地の北海道で大学の先生になられ、私たちを文部省の教養特別講義プログラム推進事業の一環として勤務先の帯広畜産大学に呼んでくれたのである。
 日曜日の早朝にもかかわらず大きな講堂は180人余りの学生たちで埋まった。S先生は「今どきの学生は授業の途中で退席する者もいますので」と事前に耳打ちされたのだが、2時間半余りに及ぶ私と患者のWさんの話にだれひとりとして退席する者などなかった。それどころか講演の最後には民謡の得意なWさんが「阿賀の流れに〜」と学生たちの手拍子で安田甚句の大サービス。もちろん、やんやの大喝采だった。午後の授業「阿賀に生きる」の上映には北海道で映画を撮り続けている長岡出身のカメラマン小林茂氏も駆けつけ一層盛りあげた。
 翌日、S先生はせっかくだからと北海道では初めての水俣病患者による小学校での公害授業も用意された。屈斜路湖のほとり弟子屈町の、5年生が3人という辺地校ではあったが、なかなか鋭い質問もあって大学生の授業とはまた違った緊張感がありWさんは張り切って答えていた。
 サロマ湖のほとりの常呂町でも昨年、「阿賀に生きる」の上映と講演会を開き交流していたので今回も最後の夜に訪ねた。
 水俣病が公表された1960年代、オホーツク海に注ぐ常呂川は上流のパルプ工場の廃液で汚染され、鮭の稚魚が被害に遭い、常呂漁民は抗議に立ち上がった。海を守るには川をきれいにしなければならない。川は豊かな森から生まれると、漁協婦人部を中心に源流の荒れた山を買い求め、植樹を始めた。今では下草刈りに高校生も参加し、次世代へ受け継がれているという。
 人口わずか5千人余りの小さな町ではあるが、とにかくパワーがすごい。その元気の源となっている人たちが港の番屋で交流会を段取り、Wさんは自慢ののどとともに83年の人生を語って若い漁師たちに感動を与えた。
 翌朝早く港を訪ねて若い漁師たちの働く姿を見た。「若い衆の一生懸命働く姿はいいねえ、年寄りのおらにも力がわいてくるようで病気のことも忘れるわ。いいもん見せてもろうた」とWさんは喜んでくれた。私もなんだかとてもうれしい気分になった。そして、水俣病の語り伝える方法はいろいろあっていいのだと、あらためて思ったのである。