1998年5月2日 新潟日報掲載

水俣と阿賀野川を見つめる兄弟地蔵


旗野秀人(安田町水俣病患者の会事務局)

阿賀野川ほとりに建立された地蔵=撮影・村井勇

 安田名物「ダシの風」で桜の花もすっかり散ったころ、阿賀野川のほとりに小さなお地蔵さんが建った。その穏やかでいとしげな顔立ちは村の老女たちの評判となり、花や果物が供えられ、手づくりの団子や赤帽子までかぶせてもらっていた。この辺で新しくお地蔵さんが建つのは随分と久しいことらしい。仲良く隣に並んで奉ってある延命地蔵でさえ、すでに70年ほど昔の話だという。
 村の地蔵祭りに合わせて開眼法要が営まれたのだが、主催した水俣病患者の会のほかに念仏講の老女たちも老人車を押して駆けつけ、村の虫地蔵と同様に念仏を唱え、祝ってくれたのは何よりもうれしい出来事だった。
 ―そして50年ほどたった雪のある日。女の子が祖母に尋ねた。「おバァちゃん、このお地蔵さんなあに。なんで石なのに服を着せてやるの」。「ほれほれ、寒がっていなさるろ。おらんとこのバァちゃんもみんなこうやって守ってこらしゃったんだ」といって背中の雪を払った。「ほれ、ここに『不知火から阿賀へ』と書いてあるろ。バァちゃんが高校へ入る春だったわね、大ジィちゃんたちがわざわざ九州の水俣川までこの地蔵様の石を探しに行ってきたんだと」。祖母の話はこうしてゆっくりと始まる。例えばこんな光景を願いながらお地蔵さんは建立されたのである。
 水俣病の話は後世に語り継がねばならないことだと時がたつにつれて深く思う。二度と繰り返してはならないからである。その方法はいろいろあっていいはずだ。正直なところ自分でもまさかお地蔵さんを作るとは思ってもみなかった。
 4年ほど前、熊本の水俣病患者である川本輝夫さんに地蔵建立の相談を受けて、阿賀野川の良質の石と安田の腕の良い石工を知っていた私は酔った勢いとはいえ、その場でお地蔵さんを送る約束をしてしまった。今回はそのお返しである。
 当初、百人余りいた安田の患者の会ではあったが、今では30人となってしまった。自分がかかわった時間だけ数えても四半世紀を越えたこの水俣病の運動は何だったのか。あの世へ逝った15人の顔を思い浮かべながら考えた。水銀の影響は健康被害だけではなかった。
 繰り返す大水害や戦争の時代をも乗り越えた知恵やいたわり、阿賀の文化までもズタズタにしてしまったと思う。
 この春、オープン間もない水俣市の「もやい直し会館」を訪ねた。あれほど「水俣病」の名前に反対した地元商店街やさまざまな立場の人たちがワークショップなどを重ねてでき上がったものだという。地元の杉材などを使って建築的にも素晴らしく、とてもうらやましかった。
 お地蔵さんは阿賀を見つめている。そのはるか西のかなたには水俣市がある。そして、水俣に送ったお地蔵さんはチッソの排水口を監視している。その東のかなたには自分が生まれ育った母なる大河の阿賀があり、お互いに兄弟地蔵として見つめ合っている。
 それにしてもわからない。同じ傷を負った兄の水俣市に新潟県はなぜ学ぼうとしないのだろうか。お地蔵さんの草取りをしてくれている子供たちに恥じないような水俣病資料館をつくってほしいものである。