1996年10月発行 第37号 風だるま

みんなで考えたい「水俣病資料館」の建設


旗野秀人(建築家)

2001年8月オープン

 「なんで福島潟なの」と9月11日付けの新潟日報朝刊で『水俣病資料館 福島潟周辺に建設』の記事をみた近所の友人に言われてしまった。
 確かにそうだと私も思ったのだが、「適地が見つかった」とする清野共闘議長や「会の中で特に異論が出なければ県の提案に従うことになるだろう」と南被害者の会会長のコメントを見れば、これはもうすでに決まったようなものである。が、ほんとうにこれでよいのだろうか。当初、共闘会議は鳥屋野潟周辺を要望していたらしいが、これとてうなづけるものではない。
 去年の暮れ、映画「阿賀に生きる」の製作に携わった私たちは新潟水俣病30年「それぞれの阿賀」展を企画した。水俣病のみにとらわれず阿賀野川の風景に魅せられて絵筆を振う画家、流域に暮らす人々を撮った写真家、そして書家と、正にそれぞれの阿賀をそそぞれの表現方法で一堂に会したのである。「水俣病三十年に私の風景写真でもいいのか」と、戸惑いながら出品された方もあったが、この言葉は運動の片隅でいつの間にか25年も係わってしまった私にも反省を迫るものであった。全国的にも類を見ないといわれたほどその組織力を高く評価さた新潟水俣病共闘会議の運動ではあったがどこかで視野狭窄的になってしまったのではないか。
 たいそう生意気な言い方になってしまったが、あまりにも自らが水俣病の固定概念に捕らわれ、鳥屋野潟や福島潟のいずれの場合も集客能力の心配のあまり、既存の施設などに頼り過ぎた結果なのであろう。
 例えば「それぞれの阿賀展」を流域市町村で開催した時に出会えた地元スタッフは、いずれも前向きに地域の将来を考えている人たちで、「わが町で資料館の建設を」という声を何度か耳にしたのである。
 実を言えば私も建設省阿賀野川工事事務所が主催の阿賀野川ルネッサンスコンテストに安田町地先を想定した博物館の模型を出品し、その思いを形にしてみたこともあった。
 些か長い引用になって恐縮だが、その模型のキャプションを紹介したい。『母なる大河、阿賀の再生を願ってその全てが結集された博物館であり、流域住民の憩いの場を目指すものである。河道の変遷史、流域の民俗史、水俣病事件史などの資料のほか漁具、川舟民具の展示などの充実は勿論のこと、広いサンデッキでは阿賀の夕日や大花火の観賞もできる。
 古老からは川漁や舟の操り方、筏の組方やダシの風の話、そして水俣病の話もいつでも聞けて学ぶ場ともなるがカヌー教室(サンデッキの下はカヌーやレンタルサイクルの格納庫になっている)や魚とりの後のバーベキュー、川原での野外コンサートと楽しいことも山ほど体験できてしまう。
 野外ステージや野鳥の観察塔などは地元産の丸太作りとし、使用電力はダシの風(風車)や太陽熱を利用し、自家発電とする。
 お土産は資料集やポストカードのほかに川原でのんびりと放牧されている牛たち(阿賀野川流域は新潟県酪農の発祥の地という説もあって、農作物の元凶であるダシの風との苦闘の末、先人たちが導入し克服したものである)のヨーグルトやアイスクリームが待っている。楽しく遊んで、しっかり学べる。そんな場となれば最高!』とは言え、決して安田町が一番の適地と言ってるわけでもないのだが、建設地の原則はやはり阿賀の岸辺であると思う。あたり前のことだが福島潟には福島潟の歴史があるのだから・・・。
 そして、始めに水俣病ありきではなく阿賀の永い歴史がありそこに住む人々の暮らしがあったことをまずは学び伝えるべきではないだろうか。勿論、これまでの長い闘いを担ってきた人たちや、行政の意見をすべて否定するものではないが、むしろこれまで運動の外側にいた人たちで、郷土史研究家や地域起こしを企画する若者、公害授業に取り組む教師、また独自に阿賀野川ルネッサンスを展開中の建設省などにも広く意見を求め、係わってもらってはどうだろうか。
 それにしても患者にとっては気の遠くなるような30年であり、差別と偏見と病苦の中でようやく手にした和解ではあったが、その中身はきわめて不十分で納得の出来るものではなかったはずだ。しかし高齢の患者を思えばこれ以上先の見えない闘いを強いるのは酷であり、その患者を非難するの論外である。
 阿賀の川風に吹かれながら、患者以前に川の民であり、川の達人だった自信と誇りに満ちた話を聞きたいものである。想像してほしい。川原では子供たちが川舟や筏づくり、川漁の手ほどきを達人から受けながら歓声をあげている様子が目に見えるようだ。
 そして二度と繰り返してはならない水俣病の話は、阿賀野川そのものが博物館でもあるその岸辺で語り継がれるのが一番だと思うのである。