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阿賀野川ルネッサンス
「それぞれの阿賀」流域巡回展、真っ只中!
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旗野秀人(建築家・「それぞれの阿賀」展実行委員会事務局)
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県民会館では座談会も併催された。
左側より佐藤真、アイリーン・スミス、林紀一郎の各氏。
(右端は進行役の筆者) |
「旗野さん、こんどのは(県民会館)安田でいつもやっている調子にはいかないんだよ」、今回の写真展を唯一、最初から最後まで一緒にやってくれた村井勇カメラマンの言葉である。それはそうだ、1回目の実行委員会は私も含めてたったの3人。不安になるのはあたりまえなのだが、正直言って、カリッときた。腹も立ったがこの言葉は最後まで励みになった。確かに大それたことをやってしまったと思う。自分でもその仕事の多さを目の前にして途中で何度か弱気になったことも事実。「なんで新潟(県都)でやらねばならんのか、安田でこれまでどおりやるのが自分の身の丈に一番あってるはずなのに」と、思ってしまったのである。
故、椿忠雄先生と共に新潟水俣病の医学面で重要な役割を担っておられた白川健一先生が亡くなる直前に「患者に借りを返せなかったことが残念でならないのです」と、涙ながらに語っておられたのを思い出す。私は医者でも弁護士でもない。たまたま阿賀の岸辺の町に生まれ育ち、家業の大工仕事を手伝ってる若い衆だった。途中で水俣病患者との出会いがあって、使い走り(事務局)を勝手にやり始め、気がついたら25年も経っていたのである。なんてことはない、うまい酒と「阿賀に生きる」人たちのたまらないほど魅力的な世界にどっぷりと浸っていた時間なのである。昨年、新潟水俣病は公表30年を迎え、今年、熊本水俣病は40年を迎える。いずれの水俣病も暮れの土壇場で一応の決着を見たが、この要した時間の長さは、その内容を問う以前にとても犯罪的であったと言える。そして、その中ですっかりいい思いをしてきた私の借りの返し方も実は問われていたのである。例えば、ドキュメンタリー映画「阿賀に生きる」の製作しかり、毎年のように続いた追悼集会の開催や今回の「それぞれの阿賀」展もそうであるが、患者の方への恩返しのつもりであり、形の違った応援歌と思ってやってきたのだった。それにしても10年余り前に佐藤真監督との出会いがあって映画「阿賀に生きる」が完成したことは、その後の私たちにどれほどの力となったことだろう。あらためて製作委員会や全国の支援して下さった方に感謝したい。
さすがに緩やかな動きではあるが、それでも年に数回はフィルムの貸し出しがあって、農協婦人部や自治会の総会、公民館の生涯学習や生協の集会など、しかも福島県や遠くは愛媛県からの問い合わせもある。
なかでも嬉しかったのは学校教育の場で「阿賀に生きる」のビデオを使ってくれたことである。患者多発地区の安田町立大和小学校では、原告患者の斉藤清吉さんと出かけたが、最初は緊張していた生徒たちも自分たちの知っているおじいさんやおばあさんが画面に登場するや一挙に盛りあがり、その時の様子を後日、私と斉藤清吉さんに感想文として送ってくれた。舟大工の技に目を見張り、船頭の風を見分ける術に驚き、80過ぎても田畑を耕し、餅をつく力に圧倒され、同じ郷土に住む人生の大先輩への尊敬の念をも十分に読み取れたのであった。
昨年暮れの県民会館展示ホールで開催した「それぞれの阿賀」展は予想以上の1000人余りの入りがあったが、とても流域巡回展をやる元気はなかった。しかし、アンケートで「お金を貰っても水俣病は解決しないと思う」と書いた小学生と「これで終わるのはもったいない、自分の町でもやって欲しい」と何人かが書いてくれたものだから、思いきって流域市町村10ヵ所での巡回展示を懲りずにまた企画してしまった。すでに1月14日からスタートしているが、その大変さと同じほどの新たな出会いと発見の連続である。三月末の報告を期待していただきたい。
いつの時代(とき)も文化は流域から生まれた。そして今、新たな『阿賀の文化』がはじめる。
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