ばらくて 1997年冬号 00号

阿賀のほとりで・01

「やるじゃん、若者たち」


旗野秀人(大工)

 オブナイさんがアブナイことを言い始めた。仲間内ではもっぱら噂の「火だるま」? という雑誌を百も承知で、なんと自らも新たな雑誌を作るのだという。しかも、である。その噂の編集長をも執筆陣に引っ張り込んでしまうのだからすごい。「同病、相哀れみ」の感あり。「クワバラ、クワバラ」などと思っていた私ではあったのだが、頼まれればイヤとは言えない性分ゆえ、自身の能力も顧みず、空っぽの頭を抱えながらもすっかりその気になって原稿を引き受けてしまったのである。
 実はひょんなことから今年の5月から7月の3ヵ月間、新潟日報夕刊のコラム「晴雨計」を毎週書くはめになったことがあって、どこかでうぬぼれていたに違いない。物書きでもあるまいしそんなにすらすら書けるわけがないのに。でも、こんないい加減なコラムニストに、なぜかファンがいた。連載が終わってしばらくたって、仕事先のおばちゃんが「毎週水曜日、楽しみにしてたんよ。面白くてさ、ためにもなったし、もう終わりなん?」なんて、言ってくれるものだから、めっぽう照れくさかった。
 さてさて、前口上が長くなったが、せっかくのお声掛かりなので、その評判がよかった? という「晴雨計」の続きを書かせていただくことにしたいと思う。なんてことはない、身の回りの出来事を思いつくまま書き散らかしているだけのこと。本紙のタイトルの意に添って「オオバラコクタイ」の中身なのである。
 「晴雨計」の最後の原稿を送った2日後、私は明訓高校放送部のNHK全国放送コンクール出場の応援に久しぶりに上京した。
 昨年は新潟水俣病の苦渋の結末をテーマに「生きているうちに…」というタイトルで5位入賞を果たした彼らではあったが、残念ながら今年は入賞を逃したのである。まあ、欲を言えば切りがない。それでも私はとてもうれしい気分なのだ。なにしろ3年間にわたって取材をし、2年連続で全国大会に出場して新潟水俣病を紹介してくれたのである。それだけではない。文化祭では写真展や映画上映を企画したり、小学校の公害授業に出向いてくれたり患者の追悼集会への参加など、その行動力はなんとも凄いのだ。普通は2年生の半ばでみんな引退をするらしいのだが、3年生の夏休みが終わった今もその気配はないようだ。いやはや今どきめずらしい、なんとも頼もしい連中である。去年の暮れ、患者多発地帯の豊栄市岡方第一小学校へ彼らと一緒に訪ねたときのことだ。出迎えてくれた小学5年生の諸君は、少し前に患者のSさんと公害授業の語り部として私も参加したものだから覚えていてくれたらしく「旗野さ〜ん」といって男の子も女の子も飛びついてきたのにはびっくりした。単細胞の私はこんな風に握手攻めにあい、取り囲まれたりすると、もう舞い上がってしまい「あぁ、やっぱり学校の先生になればよかったなぁ」などとすぐにその気になって、一瞬、大工であった自分を忘れたりするのだった。
 ところが、である。子供たちがつくったという水俣病をテーマにしたビデオや紙芝居などを見せてもらって2時間あまりの交歓会が終わる頃から事態は急変した。ビデオ作りでは大先輩の明訓放送部諸君は何かと教えてやるものだから、すっかり子供たちに気に入られ「先輩、先輩」などと言われ飛びつかれていたのだ。帰り際、もう私を取り囲んでくれる子供たちはだれ一人いなかった。おまけにあいつらときたら「おまえたち、高校は明訓にしろよ、待っているからな」なんてかっこつけるものだから、「先輩、待っててくださいよ、ボク、ほんとに行くからね」などと言って見送られていたのだ。悔しいがもうオジさんの出番ではなかった。とはいえこんなに嬉しいことはない。何しろ30年も続く水俣病問題なんぞに関心を持って行動する若い連中はそんなにはいない。明訓放送部の彼らは特別だとは思っていたのだが、まさか小学生を相手に後継者の育成までやってくれるとは思わなかった。
 8月10日、仕事柄お盆前はクソ忙しい時期なのだが、3年生の彼らの最後の晴れ舞台になるであろう全国高校総合文化祭会場の奈良市へ応援に駆けつけた。現地で取材、編集し、完成させるという部門で久しぶりに水俣病のテーマから逃れられた彼らはじつにのびのびと作品を作って、特別賞をもらった。私はこれでいいんだとも思った。帰りの電車の中、めずらしく彼らはそれぞれの進路について語ってくれた。撮影担当のN君は学校の教師になりたいという。演出のH君は大学でも水俣病問題を続けたいと環境情報学部を選んだ。ナレーターをやったF君は医療関係に進むらしい。「ちょっとあんた方、それじゃあ人生、真面目過ぎるんじゃあないの」と、へそ曲がりの私は、ほくそ笑んでしまった。
 それぞれが選んだ道で、それぞれのスタンスで水俣病問題にこれからも関わってくれるらしいが、こんな形で水俣病教訓事業とやらもあっていいと思った。阿賀のほとりでいつか彼らと再会し、一献、傾けあう日を楽しみに待っている、近ごろやたらと頭上が寂しくなった「アル中年」の私である。