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阿賀のほとりで・02
「いちがいこき」
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旗野秀人(大工)
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正月の2日、都会に住む年甲斐の「ある」五十男と年女(24歳でも36歳でもない寅年)が、阿賀のほとりの温泉宿で結婚式? を挙げた。ともに水俣病患者の支援運動を長く続けてきてくれた2人である。となれば地元の私としては黙ってもおれず、「老後を考えての結婚?」などと嘯(うそぶ)きながらも祝いの席を仕掛けた次第。正月早々の催し物ゆえ、ご両人も含め7人というアットホームなものとなった。翌朝、二日酔いの頭で結婚届に保証人のサインをしたものの、五十男の素性は未だによく知らない。年女の方はと言えば、すぐ近所の幼なじみであり、中学時代には生徒会を一緒にやったりもした仲であった。町から一歩も外に出たこともないしがない建築大工に比べ、才ある彼女はやがて大学に進み町を出た。当時盛んだったウーマンリブ運動やその後の政治闘争へと積極的にかかわり、帰郷のたびに難しい話をよく聞かされたものだが、そういうものが苦手な私は彼女に酒をしこたま飲ませては何とか切り抜けてきた。
この構図、30年経った今でも少しも変わらない。何事も彼女にはかなわない私だが、「4000万円のマンションを買ったわよ」には、度肝を抜かれた。もっともこの女(ひと)の母親Kさんも、実は新潟水俣病第二次訴訟の原動力となったほどの人。昨年の春ごろは一時危篤状態になったが、その後はKさんらしい回復ぶりで、暮れには一時帰宅できた。しかし、大みそかの晩に転倒し再入院してしまったのだが、その精神力は並大抵ではない。
さて、正月2日のもう1人のスペシャルゲストSさんの話をしたい。実は案内文にはもう1つのタイトルがあった。退院祝賀会である。昨年の10月半ば、Sさんは自転車で隣町の病院に向かう途中で転倒し、左大腿骨骨折で全治90日の大けがをした。医者や看護婦に「80歳過ぎて自転車で医者に通うなんて」と言われたそうだ。確かに81歳の小柄な体でアメテロ頭、しかも水俣病患者となればそう言ってしまうのだろうが、このSさん、並みの老人ではない。毎朝、3時過ぎには起床し、お経をあげ(和尚顔負け、しかも各宗派のお経をこなしてしまうほど)、独自の体操を済ませ、得意の民謡を口ずさみながら朝食の準備を終え、飯前仕事に出かけるのである。そもそもは瓦葺き職人だったが、器用でどんな仕事でもこなしたので、高齢になってからもそのまじめな働きぶりはどこの家でも重宝がられ、引っ張りだことなった。
歌が大好きなSさんは安田甚句のサンちゃんとも呼ばれ、民謡歌手の話もあったほど近隣にその名が知られた人でもある。若いころ女遊びが過ぎたと苦笑いするが、夫婦運や家族運にはあまり恵まれなかったようで、生活保護を受けながらの苦労など、その責任のすべては自分自身にあって、天罰としての独り暮らしなのだと明るく言ってのける人でもある。
2ヵ月ほどの入院生活を終えたSさんは、足の不自由な冬の独り暮らしを心配した子供たちの配慮で、隣町のケアハウスに入所した。暮れも押し迫ったある日、いちばん小さな鏡餅をみやげに訪ねてみた。なんとあの働き者が真っ昼間から寝ていたのである。具合でも悪いのかと声をかけたら「ここは何にもすることがねえすけね、布団かぶっていたわね」と、らしくもなく答えた。自分の部屋を出るのは食事と週3回の入浴時ぐらいで、あとはそれぞれの部屋で終日テレビと相撲? を取っているのだそうだ。
「今まで頑張り過ぎたすけに、神様がしばらくここでゆっくり休めと言ってんだわね、春まで辛抱だこてね」と言ったら、「じっとしていっと、いらんことばっかし考えてしもうてね、頭どうかなってしもう。リハビリ一生懸命して、はよ家に帰らんかね。まだやらんかねことがいっぺあるすけね」と、ようやくいつもの健康的で前向きなSさんらしい話が聞けて嬉しくなった私は、正月2日の宴には是非ともスペシャルゲストにと誘ってみた。もちろん、大喜びで玄関までわざわざ見送ってくれたのだが、途中食堂に向かう皆さんとすれ違って気づいた。明らかにSさんとは違う。どの顔もとても老けて見えたのである。全館冷暖房完備、至れり尽くせりのまるでホテルのようなケアハウス。なぜかそのことがとても気になった。
そういえば鹿瀬のHさん夫婦も、息子さんが建ててくれた新居に移った時は、昼時にもかかわらず「何にもすっこともねえから」と、2人して寝ていることがよくあった。唯一の「足」だった耕運機も去年から諦め、週2日のヘルパーを待っているという。しかし、Sさんのこと、雪が溶けたらきっとまた民謡を口ずさみながら、軽業師のように独り暮らしを始めるだろう。どうやら私が足を運んでいる相手は、「老人らしく」「水俣病患者らしく」が最も苦手であり、自分らしく生きること、死ぬことをいちばんよく承知している、いわゆる「いちがいこき」のかたまりのような人たちだった。
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