ばらくて 1998年秋号 02号

阿賀のほとりで・03

「なんで身上、潰した?」


旗野秀人(大工)

 会津のオハラショウスケさんは「朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それで身上潰した」ひとだったらしい。アル中ハイマーの小生にとって望むところの人生である。そんな憧れのショウスケさんが住んでいたというお隣の会津から「酒飲みに来らんしよ」との誘いが来た。この言葉、嘘ではないのだが、照れないでもう少し詳しく言えば、阿賀野川源流の町、南会津は田島町のグループ「どうすっぺ! 田島」の皆さんから、映画「阿賀に生きる」の上映と講演の依頼があったのだ。完成からすでに6年、そろそろフィルムにもカビが生えてきそうだというのに、なんともありがたい話であった。
 さて、なんで今頃になってお声がかかったのか。「どうすっぺ! 田島」の皆さんとの出会いを少し語りたい。
 昨年の夏、亀田町の「ディスカバー亀田実行委員会」の中林さんから「河川公園で田島町と交流会をやるので遊びにこないか」とのお誘いがあった。田島町からは約40人、亀田町側からは約70人もの参加があったのだが、私は誰がどこの人なのか判らないまま、いつもどおり最後までつきあって飲んでしまった。朝になって気づくのだが、現地に泊まった地元の人間は私と中林さんの2人だけだったらしい。それにしても初対面の「どうすっぺ! 田島」の面々、いずれもなかなかの豪傑ぞろいと見た。日中のバカ暑い最中に、鉄船による舟下りが計画されたのだが、船上のお燗状態の清酒「国権」(国家権力という名の田島町の地酒だという)を私と会長の星富士男氏はすっかり飲み干してしまったのだ。勿論、他の人は地元の郷土史研究家や自然観察員の説明に耳を傾けていたのだが、かなり出来上がってしまった私は、中林さんに指名されたものの何を話したのやらさっぱり覚えていない。ただの酔っぱらいとなっていた。しかし、この日の交流が縁となって秋には亀田町の人たちが田島町へ植林ツアーに行くことになるのだが、中林さんはまたもや懲りずに私にも声を掛けてくれるのであった。
 長い間、いつかは阿賀野川をゆっくりと遡ってみたいと思っていた私は、亀田町の皆さんとのバス同乗を辞退して、運転手に甥のY君と、夜の宴会に備えて歌手? のSさん(水俣病患者の会専属)を誘って、ひと足早く出発した。途中、只見川や日橋川との合流点に立ち、遠回りを覚悟の上で阿賀野川〜阿賀川〜大川〜荒海川と名称が変わり、流れの様子が変化していくのを確かめながら、河口から約200キロの源流の町をめざしたのである。そして、案の定、夜の交流会は亀田町、田島町それぞれ自慢の地酒「寒梅」や「国権」が振る舞われ、歌や踊りが飛び交い大宴会となった。いつもよりも少し遠慮がちで歌い始めた安田町の歌手Sさんではあったが、なあに1曲歌えばこっちのもの。いつの間にか隣の舘岩村から来たという木遣りの衆とともにメインゲストになっていた。
 Sさんは一滴もいけない口なので、歌うのが仕事。甥のY君はカーマニアなので運転が仕事。私は運転も歌も苦手なもので仕方がない、飲むのを仕事にした。結局、真面目に朝まで仕事? をしたものだから、気がついたら地元スタッフの部屋で雑魚寝をしていた。毎度のことながら私は二日酔いの頭を抱えながら、81歳のSさんと24歳のY君は爽やかな顔で元気よく、本番の植林会場に向かったのである。
 福島県と栃木県に跨ってそびえ立つ、荒海山1581mの頂上には「大河の一滴、ここより生る」という阿賀野川水源の碑があるという。その麓の荒海川のほとりで選鉱場跡地の荒れた山への植林であった。それにしても驚いた。地元のボーイスカウトなども参加し、町長や林業事務所長などの挨拶もあったりで、とても大規模なイベントだったのだ。Sさんの元気のおかげで、我々3人組もなんとか他のチームに劣らぬほど植えることができたし、いい汗(少しアルコール臭いが)もかいたのだが、さすがにお昼の豚汁パーティーでは「国権」には手が出ず、ビールで乾杯した。帰り際「今度はフィルム持って下草刈りツアーに来るから上映会しようよ」と、私の仕事熱心? が功を奏して、8ヵ月後の上映会をオハラショウスケさんみたいな星会長に約束させてしまったのである。
 さて、ようやく本題に入れると思ったら、残念ながら誌面の余裕がなくなった。詳しくは次回に譲るとして、予告編を少しだけ。テキの手の内をすっかり読み取った私は、歌手のSさんは勿論のこと、そのおつきの楽団員の1人で笛吹きのNさんにも声を掛け、「お迎えカメラマン」で近頃では県外でも有名になったMさんを映写技師にお願いし、ますます仕事熱心? になったと評判の私を含め、完璧な体制で田島町へ再び乗り込んだのであった。