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阿賀のほとりで・05
「桜散る、残る桜も散る桜」
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旗野秀人(大工)
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近頃、良寛さんがまた流行らしい。研究家でも何でもないただのファンである私は北川省一さんの「游戯三昧」に語られる良寛さんが特に好きだ。
で、息子や猫にまで本人の同意を得ないまま、名前に「游」の字をつけてしまったほどなのである。
良寛さんには謎めいた部分が多いと言う。その分、ただのファンの私にとっては勝手に良寛像をつくれて楽しめて嬉しい。
例えば、映画「阿賀に生きる』に登場する船大工の遠藤さん、餅屋のジイちゃん、鹿瀬の芳男さんをはじめとするこれまでつきあってくれた歳老いた人生の達人たちに「今様(いまよう)良寛さん」を垣間見るのである。
20歳そこそこの頭でっかちで生意気盛りの私なんぞをわが子のように可愛がってくれたり、素性の知れない(失礼!)映画スタッフや水俣病研究者、支援者等々をいつの時にも暖かく迎え入れてくれた。
日がな一日、本気になって子供たちと遊んでいたというあの良寛さんと私にはダブって見えるのだ。勿論、いずれ劣らぬ「いちがいこき」(一徹者)であったことも間違いないだろうが。
それにしても無念なり。その一緒に遊んでくれた今様良寛さんたちがこのところ次々にあちらの方に逝かれてしまうこと頻繁なのである。
あの「団結ガンバロウ!」で有名な安田町水俣病患者の会会長だった鈴木勇さんもそのひとり。
私は不覚にも油断をしていた。大正10年生まれの勇さんは会の中でも若いほうで、しかも一番の「頑丈もん」で通っていたものだから聞き取り作業なんかも後手となっていた。
11月30日、長引く腰痛に疑問をもちつつ検査入院するのだが、すでに肝臓にまで転移しているほど悪化し、1カ月も経たない12月28日にはあの世の人となってしまうのである。
こんな言い方はなんだが、歳の順番から言えば勇さんの先輩はわが会にまだ大勢おられた。この「まさか」の順番違いは熊本の水俣にも起きてしまった。勇さんよりひとまわりも若い67歳で急逝された患者運動のラディカリストで知られた川本輝夫さん。私が水俣病事件に係わるきっかけをつくった人でもある。
2月8日、末期癌らしいとの突然の一報が現地から入った。なかなか信じられないままお見舞いに伺う計画をたてるのだが、間もなく訃報の電話をもらう。病気を知ってわずか10日後のことであった。
勇さんに川本さん。何もかもがまったく違うタイプの2人ではあるが、私の物差しからすればいずれも、心優しい今様良寛さんなのである。
私は、水俣病事件に係わることで大勢の今様良寛さんたちに出会え、いっぱい遊んでもらえた「幸せもん」である。こうやって遊び相手が欠けて逝くたびにそのありがたさが身に沁みる。
まだ寒い頃、京都のK君から電話があった。フリースクールの春休み旅行で阿賀野川ツアーを組みたいと言う。
このK君、6年前の最初の追悼集会に京都からバイクで駆けつけてくれたツワモノである。当時京大生だった彼も、今では不登校児が集うフリースクールの先生だという。こんなふうに再び阿賀を訪ねてくれようとはなんとも嬉しいかぎりである。
車の運転は苦手な(R中だから)私ではあるが、定員オーバーも気にしながらのいつもの「スペシャルコース」を案内した。
意外とみんな元気な子供たちで(中には元気すぎる奴もいたが)強行軍のスケジュールでも楽しそうに遊んでくれた。風邪をひいていた鹿瀬の芳男さんのところでは子供たちを外で待機させていたのだが、「なんで寄ってもらわねぇ、遠くから来てくったのに」と怒られてしまった。そして、お彼岸で仏壇に山ほどあがったお菓子や果物を子供たちに「駄賃」だといってすっかり持たせてやるのである。
持てないほど抱えた子供らは「ありがとう」と言ってペコンと頭を下げた。K君が言った。「あの子の『ありがとう』をはじめて聞けました」と。
ツアーの前には「阿賀に生きる」のビデオもみんなで見たという。鹿瀬の工場や発電所などでも一応の説明をした。が、子供たちの記憶には残るはずもなく、何よりも大奮発? をした温泉旅館の楽しい夜であり、芳男さんたちの優しさにはかなわないだろう。
間もなく、嬉しい電話が入った。家での会話など無かった子供たちが、はじめて楽しかった旅のみやげ話を夢中で家族に話して聞かしたらしい。
2月のはじめに隣町のS中学校から突然、保健授業での講演依頼があった。身のほど知らずの私は勿論、快諾してしまった。生徒が失礼な態度をとるかもしれないと若い女の先生は心配されていたが、授業後の生徒が書いた感想文を読んで、私は今時の中学生もまんざらでもないと嬉しくなった。
むしろ最初に通された教務室が心配だ。挨拶のできない先生のなんと多いことか。いつもの私の作業服の出で立ちがそうさせたのか。「大工をやりながらの旗野さんは偉い」と書いてくれた生徒たちとは対照的に思えた。
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