ばらくて 1999年秋号 05号

阿賀のほとりで・06

「水俣展から見えたもの」


旗野秀人(大工)

 この夏もめっぽう、忙しかった。そう、右半身の建築業も左半身の「水俣病冥土のみやげ企画」事業も、である。
 運動にかかわり始めた生意気盛りの頃、餅屋のジィちゃん(映画『阿賀に生きる』の主人公の1人)によく言われたものだ。「二足の草鞋はよくねぇ、どっちも中途半端になる」と。
 けして人生の師匠に反論するものではないのだが、その中途半端を30年近くやってしまうと、ちょうど「いい加減」を覚えてしまって、すっかり右も左も合体しちまっているのである(こういうのを手遅れというのか?)。
 夏のはじめ、水俣高畠展(山形)へ行った折、この「いい加減」の大切さを説く人と出会った。水俣の漁師、杉本雄さんである。と言ってもご存知あるまい。水俣の語り部として有名な杉本栄子さんの連れ合いでもある。
 失礼な言い方になるが、今回も語り部の栄子さんの「連れ」として来られたようだが、偶然にもとても貴重な話を雄さんからも聞けたのである。新潟から同行した患者の会のみなさんとともに温泉に浸かったあと、ロビーで自然と漁の話や段々畑にある甘夏みかん作りの苦労話となった。
 水俣病の被害を受けたこともあって、農薬はなるべく使いたくなかったので、身体がボロボロになるまで必死に草を刈り取ったという。草もその仇を討つが如くまたすぐに生えてくる。まるで草と戦争していたのだ。
 そんなある日、20年余り書き綴ってきた農作業日誌を読み返していたら、草刈りを手抜きした年のほうが豊作だったことに気づいたという。日差しが強い季節には、土に日陰を作ってくれる役目を草は担っていたのだ。草も生きもの、ともに「いい加減」につき合っていくこと(身体の酷使も半減)の大切さを知ったというのだった。
 水俣展ホールでの栄子さんの講演もさることながら、有機農業の先進地、高畠町でのもっともふさわしい話を聞かせてもらったようで嬉しかった。
 高畠のエピソードをもうひとつ。今回は隣県での開催にもかかわらず、新潟の患者の出番は残念ながらなかったのではあるが、実行委員会の心配りでサクランボ狩りや温泉、そして夜の交流会にも参加させてもらった。
 そのサクランボ狩りでの出来事。築後300年は経っているという茅葺きの農家でお茶をいただいた。まず目についたのが手斧(ちょうな)仕上げの黒ぐろした栗の柱であった。この家にはクーラーどころか扇風機もないという。真夏の昼寝にも毛布が必要なくらいとご主人。なるほど、茅葺きの効果もあるのだろうが、北側には涼風を起こすべく、仕掛けの池が地味な作りではあるがうまい具合に掘ってあった。
 私が大工の端くれと知ったご主人いわく「今どきの家は坪いくらぐらいなもんかね」ときた。どうも道路の拡張工事のためにこの家を壊して新築移転するらしい。もったいない話である。お隣には某ハウスメーカーの高気密高断熱の新築間もない洋館風が建っていた。間違ってもあんなふうにはしてほしくはないと思った。山形の気候風土を知り尽くして馴染んだ建物がいい。まさにこの築後300年のこの家に勝るものはないのである。復元は無理でもせめて柱の再利用をすすめた。
 お茶受けに出してくれた高級菓子のような茄子漬はこの家の秘伝で、93歳の宝バァちゃんの作品だという。せっかくだからと私は奥で休んでおられたその品のよさそうな宝バァちゃん(若いときはさぞかし美人でもてたに違いない)も連れ出し、皆で記念写真を撮った。わが会きっての色男の83歳のSさん、さすがにその品の良さを素早く見抜き、宝バァちゃんの脇に座って写ったのは勿論のことである。
 家が300年も健康なのだから、そこに住む人だって90や100まで生きてあたり前のことだとつくづく感心した。
 短い時間ではあったが、建築の話から始まって食べ物や暮らしの話に農業のあり方を、美味しいお茶と漬物をいただきながら、下は十代の学生から上は93歳のおバァちゃんまで同席し、300年の時の歩みを重ねた屋根の下で話し合えたとはなんて贅沢なことだったろう。
 夏の終わりには水俣おおさか展にも行ってきた。以前からのつき合いもあって『阿賀に生きる』の上映や『それぞれの阿賀』写真展、そして語り部としてずいぶんと新潟の出番を作ってもらった。が、その会場のあり方や仕掛け方に水俣東京展を見るようで違和感を覚えた。交通の不便な夢の島に建つ未来都市のような会場までは迷路のようで、アップダウンも多く、見る人には配慮がなかった。
 貧乏性の私などには、1時間の電気料が1万円、会場使用利用が1日100万円などと耳にしたことも気になった。
 唯一嬉しかったのは、関西訴訟原告の川上団長が、同行したSさんを「大先輩」と呼び、昨年と同様に民謡合戦をしてくれたことであった。