ばらくて 2000年秋号 07号

阿賀のほとりで・08

「阿賀に『荒馬座』がやってきた」


旗野秀人(大工)

 春の頃、東京のオバサンたちが「水俣」を子供たちに伝えるネットワークを立ちあげた。その時、ひときわ元気のいい4人組があいさつをした。
 集会が終わり、その劇団風の一番若そうな女の子が「あのー阿賀のお地蔵さん見たいんですが」と遠慮がちに声をかけてきた。私はこういう場面には滅法弱い。勿論「いつでもいらっしゃい、スペシャルコースを案内してやっからさ」となってしまう。
 読者諸氏は首都圏を中心に活躍する「荒馬座」という民族歌舞団をご存じだろうか。後で知るのだが入座2年目、悩み多き19才のU子ちゃんとの出会いの場面であった。
 夏のはじめになって座の休みが3日間とれるから、との手紙をU子ちゃんからもらった。嬉しくなって早速、2泊3日の「阿賀に生きる」スペシャルコースを勝手に組んで送ってみた。
 「シンジランナ〜イ、ホントにホントですか」てな電話をもらってますます嬉しくなってしまった、私である。
 まずは安田名物「かねさや」ラーメンを食べ(ビールは我慢!)安田町水俣病患者の会が待つ千唐仁集会場へ。
 夜の雨の中、腰の深く曲がったNさんやTさんも集まってくれていた。東京みやげの芋ようかんとヤスダヨーグルトを交換、互いに美味しくいただきながら、阿賀の昔ばなしも次第に盛りあがっていった。
 魚取りの話からはじまって、砂利船の話に川での洗濯と一斉にそれぞれが勝手に話して、若い聞き手を慌てさせる。私は7人の話を同時に聞き取ったという聖徳太子ではないが、結構慣れたもので適当にそれぞれ返事などをしているものだから驚かれてしまった。
 神楽舞なども演目という座員は集会場の床脇に飾ってあったこの集落の神楽舞の道具にも興味をもったようだ。
 帰り際、お勝手のほうから珍しくもNさんの神楽舞の歌声が聞こえてきた。遠来のお客さんに食器を洗いながらの大サービスだった。それだけではない「Tさん、ひとつ舞ってみなせえ」と、ぐずる男衆を尻目に薄暗く足下の悪い玄関先であの腰の曲がったNさんが踊りはじめたではないか!
 それを見て感激した座員は「旗野さん、太鼓持ってきてるんですが」と来た。
 ちょっと待った、この辺の百姓衆は朝が早い。あの、夜更けの住宅街でスクラム組んで、労働歌を歌ってしまう「H座」の真似だけは、もうご免だ。
 翌日、座員のマイクロバスでいつものように「阿賀に生きる」スペシャルコースをご案内。今回は嬉しいことに運転手付きでのガイド役とはしめたものである。となればお昼の小宴会の段取りをせねばなるまい。
 その日は鹿瀬駅前の「E食堂」にした。ここは故・Yさんの御用達食堂で川向かいのダムの麓まで、団子状態のラーメンやてんこ盛りの丼物をよく配達してもらったものである。
 ということもあって店の親父さんはビールのつまみに私の大好物の山菜や漬物をいつもどっさりとサービスしてくれるからありがたい。
 さて、本番の夜の大宴会? (たったの7人で)8時頃までの約束で太鼓の持ち込みを許してもらうのだが、相手はプロの芸能集団、大変な迫力なのである。さすがのわが安田大学民謡・古典芸能学科のS名誉教授も「いやはや、てぇしたもんだわ」を連発。しかし、Sさんも現役の患者の会専属歌手である。唄の味は天下一品、若いもんなどかなうわけもない。圧巻は84歳のSさんと19歳を筆頭とする荒馬座との「ソーラン節」のセッションだった。7人の宴会でやるとはなんとももったいない話である。
 いつの時も、楽しければ楽しいほど別れの際は辛い。阿賀のお地蔵さんに会いたいと縁をつくってくれた19歳のU子ちゃんは止まらない大粒の涙をポロポロ流しながらSさんの手を握ったままなかなか離さなかった。
 後日談だが、早朝に2人はデート? をしたらしい。入座して2年目のU子ちゃんはこのまま続けるべきかどうか、とても悩んでいるのだと84歳のSさんに相談したという。いい話だ。
 しばらくしてU子ちゃんから手紙が届いた。「阿賀の2泊3日はとても楽しかった。新潟に暮らしたいと本気に思った。しかし、その後じっくり考えてみたら自分の居場所はやはりここだと気がついた。頑張ってみます」嬉しくて、すぐに返事を書いた。
 「宿題です。演目に熊本のハイヤ節があると聞きました。Sさんの新潟の唄も入れて、舞台で阿賀と水俣の兄弟地蔵さんの話でもしてみませんか」
 いずれ頼もしい芸人になるであろうU子ちゃん、再会を楽しみにしている。