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阿賀のほとりで・10
「大阪で楽しく大交流会」
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旗野秀人(大工)
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いやはや、何と楽しい人たちなのだろう。水俣病の支援活動をこんなに楽しく賑やかにやってしまっていいのだろうかと、さすがの私も驚いた。
関西訴訟を支援する「あみかけ一座」。いかにも大阪人らしい元気の良いオジさんオバさんたちのことである。
全国の水俣病患者が和解する中で唯一裁判を続け、4月には大阪高裁で初めて国、県の行政責任を認める判決が出た。にもかかわらず上告された高齢の原告を支援する集会がこの夏、大阪であった。
3年前「水俣大阪展」へ新潟から、患者であり安田大学民謡古典芸能学科名誉教授(?)のSさんと参加し、その人間国宝的芸能を披露したことが縁で、この7月に再びゲストとして招かれたのである。
前日の7月7日は、支える会主催のいわゆるよくある決起集会で、弁護団や医師団の報告やら記念講演などもあったらしいのだが、8日は保母のMさんらが企画した水俣病問題の素人向けの、原告の慰労を兼ねた歌舞音曲の会ということで、タイトルも「水俣『知ろう』っと! の集まり」であった。
ゲストに招かれた85歳のSさんは、まずは得意のバチさばきで安田甚句を披露し絶賛された。大阪のみなさんも負けてはいない。河内音頭の歌と踊りで舞台と会場を盛り上げ、ひとつにした。
数週間前から練習を重ねてきたという原告のみなさんも、当日の生オケにもよく合ってとても楽しんでおられ、慰労されたことと思う。
私も力水(越の寒梅)を土産にしたが、会場のロビーには灘の生一本はもちろんのこと、新潟の地酒まで並んでいたものだから、「仕方がない」、昼間であろうと、出来上がるしかなかった。
この勢いは夜の打ち上げ交流会へもそのまま繋がり、なおいっそうの盛り上がりとなった。のはいいのだが、酔った勢いの木野先生(大阪市立大)はいきなり「明日、新潟の2人は大学で講演することになりました」と勝手に公言。もちろん、別に断る理由もないのでノコノコと出かけていく2人であった。
その日は「環境の科学」という授業の最終日だったらしく、木野先生が最初の60分を講義され、残りの30分を私とSさんが講演と公演をやらしてもらったのである。教室の片隅にあった段ボールを太鼓代わりにちょいと拝借し、背中に挿した「マイバチ」で、いつものように名調子を始めたSさん。予告もないまま突然、新潟水俣病患者を紹介された学生諸君も気の毒だ。いわゆるもっと悲惨でかわいそうな水俣病患者を想像しただろうに、「僕のおじいさんよりも元気そう」と感想文に書いてしまうほど驚いていた。
「私たちは『水俣病患者はこうあるべきだ』と思い込んでいまいか。どんなに辛く苦しくとも、24時間病気のことばかりを考えては暮らせない。病む身体をだましながら仕事をし、歌い踊り、お酒を楽しみながら水俣病と二人三脚している生きざまもある」と、私は話した。このことは私自身が患者らしい患者像を求め、支援者気取りで理想の患者像を強いてきた反省の言葉でもあった。
「素人でもわかる、素人でもできる支援運動」をスローガンに、大阪人らしいとても賑やかで楽しい、歌舞音曲ありの集会を企画してくれたMさんたちは、その後まもなく尊敬するSさん(名誉教授)を訪ね、新潟へも楽器持参でやって来た。いつものように阿賀の川筋を河口から鹿瀬まで案内はしたのだが、いつもと違うのは、どこへ移動しても常に歌舞音曲と笑い声が絶えなかったことである。
患者の会常宿の咲花温泉での夜などは、たまたま稲刈りの湯治に来ていた長岡方面の農家のお年寄りが、あんまり楽しそうなので仲間に入れてほしいとなだれ込み、突然の大交流会となったのである。
すっかり自信を持った「大阪歌舞音曲団」のMさんたちは、名前も新たに「あみかけ一座」とし、11月4日に大阪で泣き笑いの大喝采の旗揚げ公演の後、上告取り下げの署名約25000人分とともに上京、東京での支援集会でも公演してくれた。
いつもなら「団結ガンバロウー」集会で終わる東京なのだが、今回は「あみかけ一座」のおかげで、ひと味もふた味も違った大阪らしい集会だったと思う。
安田の患者の会代表のGさんと参加した私は、相変わらずの力水と2度目の集約分300人余りの署名をお土産代わりにプレゼント。そして、高齢の原告のみなさんにこれ以上ガンバレとはとても言えないので、ちょうどいい塩梅で続けてくださいとお願いをした。
この上告取り下げ署名の目標はなんと101万人だ。ということはあと98万5千人ほど足りない勘定となる。
この話、わが患者の会の「冥土の土産」企画としては願ってもない。ばらくて読者諸氏にも近々楽しい絵入りの署名用紙が届くはず、お力添えを!
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