|
阿賀のほとりで・特別編
「お迎えが来るまでがんばろう」
|
旗野秀人(大工)
|
とうとう、映画『阿賀に生きる』が完成してから10周年を迎えました。
時間はづしたって止まらずに積み重なっていくものですから、いつか10年目を迎えることなど百も承知していたはずなのですが、やはり私にとっては「とうとう10周年」が実感です。
10年ひと昔と言われますが、佐藤真監督と出会ったのが1983年だから、やがてふた昔前の話となります。少々照れ臭い言い方ですが、今から考えればドラマチックな出会いだったのかもしれません。その頃の私は、熊本の運動を見よう見まねで10年ほどやってきたものの、行政不服や裁判闘争に限界を感じていました。家族以上のつき合いをしてくれる、川筋の年老いた人たちの暮らしぶりや生きざまの魅力を知った私は、佐藤監督にその自慢をし、「阿賀」の映画をつくりたいと言ったのです。
その10年後、出演者の名演技ぶり(?)や全国各地からの支援のお陰で海外の賞をもらうほどの映画が完成したものの、翌年には出演してくれた餅屋のジィちゃんバァちゃんが相次いで亡くなってしまいます。当然のことながら、一番お世話になった地元の私たちは追悼集会を企画し、全国の『阿賀に生きる』ファンからも駆けつけてもらうことになりました。
運動のきっかけをつくってくれた川船の船頭だった市川栄作さんをはじめ、団結ガンバロウで知られた鈴木勇さん、舟大工の遠藤武さん、そして、鹿瀬の長谷川芳男さんと、この10年間に次々と逝ってしまいました。そのたびに感謝の気持ちを込めて『阿賀に生きる』の上映と、毎回、映画のファンでもあってくれる多彩なゲストを迎えて、故人を精一杯、讃えてもらいたかったのです。
佐藤真監督や大熊孝新大教授はもちろんのこと、絵本作家の田島征三さん、写真家の芥川仁さん、川船研究家の赤羽正春さん、児童文学者の杉みき子さん、哲学者の内山節さん、京都精華大の嘉田由紀子さん、田中正造大学の坂原辰男さんと、いずれのゲストも快く都合をつけてくださいました。つくづく思ったものです。なによりの「宝もん」を残してもらったものだと。
10年経っても「熱い」
『阿賀に生きる』ファンたち
そして10年目の今年、これまでは映画の舞台となった地元ということもあって、安田町の中央公民館を会場にして開催してきましたが、節目の今年は思い切って県都のシネ・ウインドで1週間貸し切りで日替わりゲストを招いてトークも毎日やるという大変に欲張った記念上映会を企画してしまったのです。
また、豊栄市の県立環境と人間のふれあい館では、7年前の新潟水俣病公表30周年記念でやった「それぞれの阿賀」写真展を、写真家・桑原史成氏をゲストに招いて、ふれあい館の全面的な協力で開催を試みました。
シネ・ウインドは1週間で約700人、ふれあい館は9日間で約3000人の動員があったそうです。いずれもすごい数字なので驚き、みんなで喜びあいました。
5月4日の記念集会はいつもどおり、安田町の中央公民館で開催しました。北は北海道、南は九州まで、相変わらず熱心な『阿賀に生きる』ファンが全国から150人余りも駆けつけてくれました(集会の途中で、コバさんこと小林茂カメラマンが救急車で運ばれるハプニングもあって、こちらもパニック状態に陥ったのですが、検査の結果大事に至らず、まずはひと安心しました)。夜の大交流会も常宿の咲花温泉柳水園があふれるほどの100人余りの参加者で賑わいました。実はこの集いが縁で何組かのカップルが誕生したという実績もあって、大変ありがたい? 集会という噂もあります。
さて、このへんで今年の顔触れを少し紹介し、この10年を振り返ってみたいと思います。
まずは常連組の栃木のYさん一家です。いつも家族ぐるみで参加してくれるので、2人のお嬢さんもすっかりみんなの人気者となっています。
Yさんの本業は植木屋さんのはずですが、いつもカメラをぶら下げていては、写真展をやってしまうほどの腕前で、正体不明? な男(ひと)です。映画作りのスタッフルームとなった三川村の「阿賀の家」の最初のお客さんだったはずですから、もう10年以上も前から通ってくれていることになります。今年の7月には栃木の仲間と共に黒磯市での上映会や講演会も企画してくれました。
私よりも2週間ほど早く生まれたことをいつも自慢げに兄貴ぶるNさん。追悼集会の連休頃には水俣現地もちょうど慰霊祭とかの行事もあったりで、あっちこっちへ行ったり来たりで30年余り水俣病事件に関わっている、酔っぱらい中年です。私がまだ独身の頃、初めて新潟を訪ねて来たNさんは、1週間ほとんど外出もせずに、朝から晩まで我が家の台所で酒を飲んでいたというエピソードの持ち主でもあります。この春、長年勤めていた型枠大工の仕事も失職してしまったらしいのですが、毎年、その稼いだ金で甘夏みかんの季節には水俣へ必ず援農に行っていた凄い男でもあるのです。
今年は10周年だからと、正月早々に参加を申し込んでくれたNさんですが、栃木のYさんだけには負けたくないからとエントリーナンバー1番を主張し、馴染みの居酒屋のオヤジさんやママさんらを誘っての参加でした。シャイで気遣いのある男なのですが、なにしろ私とは「同病相哀れみ」の関係で評判を落としてしまっているようです。
北海道からはSさん母娘も駆けつけてくれて受付などを手伝ってくれました。Sさんが学生の時に社会学の調査に入ったことが縁の始まりで、その後は大学の教員になられてからも映画の上映や講演などで声を掛けてくれました。おかげさまで私たちは生まれて初めての北海道旅行も叶ったりします。娘のKちゃんが通う小さな小学校で話をさせてもらったことも良い思い出になりました。その後もKちゃんは患者の皆さんと文通を続けてくれています。
東京のIさんは純粋に登場人物のひとりである舟大工の遠藤武さんの大ファンです。毎年、懐かしい級友に会える故郷で開催される同窓会にでも出かけるようなうれしい気持ちになって、第1回目からずっと参加しているという貴重な女(ひと)です。
水俣在住のシンガーソングライターの柏木敏治さんの新しいCD「安心の歌」の発売日をこの集いに合わせてくれたこともあって、柏木さんをはじめ、プロデュースをした「『水俣』を子どもたちに伝えるネットワーク」のみなさんも相模原や豊橋、豊中、浜松など各地から参加、賑やかに花を添えてくれました。
賑やかといえば、水俣病関西訴訟支援の「大阪あみかけ一座」ご一行様にはかないません。わが「安田大学民謡・古典芸能学科名誉教授」渡辺参治さんとのセッションは大変に盛り上がったとのこと。残念ながら私たちはコバさんのことがあって当日は見られなかったのですが、そのパワーは東京と大阪で拝見しています。
「普通の市民、素人ができる支援」を原点としている、大阪らしい元気のいい人たちで、底抜けに明るいのが印象的でした。
これが縁となって、その1ヵ月後、私と渡辺参治「名誉教授」は大阪のリバティホールの舞台に立つことになるのですが、今さらながらに参治さんのパワーには驚くばかりでした。
例えば、翌日の午前中にはせっかくの機会だからと、大阪電気通信大学で2コマの授業で講演と公演をし、午後からは大阪市立大学のキャンパスで野外公演をやってのけたのです。そして、3日目の神戸でも『阿賀に生きる』の上映会で再び自慢の喉を披露してくれたのでした。いわゆる「冥土のみやげツアー阪神編」というわけです。
関西訴訟の原告の皆さんもいろいろと難題をかかえながらも、それぞれ参加してくれたこともうれしいことでした。
86歳の参治さんをいつも「先輩」と言って握手をしてくれる原告団の川上さんや坂本さんたちは深夜バスで駆けつけてくれました。以前から川上さんの「相撲甚句」と参治さんの「安田甚句」の歌合戦も評判でしたが、リバティホールでは面木さんが、おひねりの冠を参治さんの輝く頭に載せてくれたのです。
水俣からは患者の佐々木さん、松村さん、そして相思社の弘津さんが参加してくれました。98年の3月、阿賀のお地蔵さんの石探しツアーに水俣に出かけた際には大変お世話になった方々です。
4月のお地蔵さんの開眼法要には、佐々木さんたちと共に、今は亡き川本輝夫さんも奥さんとご一緒に参加してくださいました。そのお祝いにプレゼントしてもらったタコ壷の花立てを見ると川本さんの元気だった姿を思い出してしまいます。
この水俣への石探しツアーにも同行してくれたライターのF子さんも、遠く福岡の地から久しぶりにこの集会に参加してくれました。もっとも昨年の夏までの半年間、柳水園を常宿にして、阿賀の川筋を聞き書きやビデオカメラを回しながら歩いておられたようです。97年から2年間、福音館書店の「母の友」に、「昔むかし、この阿賀に」を連載してくれたひとでもあります。さてさて次回作はどんなふうにまとめてくださいますのやら、とても楽しみです。
コバさんのダウンは
神仏からの「忠告」
佐藤監督もほとんど毎回都合をつけて参加してくれていたのですが、今年は「明治の痕跡、阿賀の記憶」と題してその後の阿賀を安田町出身のアマチュア写真家石塚三郎を切り口に撮る話が、春一番に舞い込んできました。しかも、再び小林カメラマンと組みたいというのです。
正直なところ『今後、佐藤真監督と仕事を組むことはないだろう」と言っていたコバさんから「佐藤監督から長文の手紙をもらっているのだが、相談に乗ってほしい」と言われたときには驚きました。私がその手紙を読ませてもらった時には、すでにコバさんは返事を書いていたのですが、その書きあげたばかりの手紙を拝見した時には、涙が出るほどうれしい気持ちになったものでした。この2人、またきっと凄い作品を作るに違いない、と予感したのです。
そして、5月の1〜3日とカメラテストを行い、毎晩のように語り合い、うまい酒を飲んだものでした。今から思えばコバさんはいつも体調を気遣い、我々よりはひと足早く休んでいたように思うのですが、5月4日の集会の真っ最中に倒れ、救急車で運ばれてしまったのです。
コバさんも、びわこ学園の3年がかりの新しい映画の構想もかかえ、きっとパンク寸前だったに違いありません。つくづく、この10年の時の経過を身体で実感する出来事でした。たまたまコバさんが倒れただけで、私でも佐藤監督でも不思議ではなかったのです。しかし、いずれにしても今回の一連の事柄はすべてみな我々の肥やしとなって役立つような気がします。「そろそろじっくりと仕事しろよ」と神さまか仏さんが、忠告してくれたのかもしれません。
実は私も今、若い人たちの協力を得ながら「阿賀野川、昔も今も宝もん」という30分ほどのビデオ作品を製作中なのです。ところがドロ縄状態で、じっくりとつくらねばとの思いとは裏腹に焦ってばかりで最後の追い込みをしています。
語り部の皆さんが次々と亡くなっていく現状を見かねて『阿賀に生きる』のその後の役者(患者)の皆さんからひと肌脱いでもらえるようなものをねらっているのですが、さてさてこちらもどうなりますことやら……。
86歳の渡辺参治さんの葬儀委員長を私が。そして、参治さんは私の葬儀委員長を引き受けてくれています。思えば、20歳の頃に水俣病事件にかかわり、いつの間にかこんな話題が明日は我が身と実感できる年頃になってしまいました。
でも、決して弱気になっているわけではありません。今年の後半もすでに上映会や講演依頼が入っています。どうであれお迎えが来るまでは頑張りましょう、と患者の皆さんと笑いながら話している今日この頃です。
|