新潟日報夕刊 1997年5月14日

晴雨計・02

「劇団『はぐるま座』」


旗野秀人(新潟の水辺を考える会会員)

 まだ寒いころ、水俣共闘の高野さんから紹介されたといって私を訪ねてきた男がいた。
 創立45周年の劇団「はぐるま座」のオルガナイザー長沼実氏であった。田中正造と農民たちの闘いの歴史を描いた「亡国の構図」の県内公演のため山口県からやってきたのだという。私はいつもの調子で酒を酌み交わしながら語りあった。
 芝居といえば一人芝居の砂田明さんを思い出していた。水俣の作家、石牟礼道子さんの「苦界浄土」をもとに「天の魚」と題して連れ合いのエミ子さんと全国500回公演を果たした人である。縁あって私の住む安田町でも10年ほどの間で2度やってもらうことができた。劇中のムツゴロウ音頭をみんなで楽しく踊ったのが懐かしい。その砂田明さんも今はもうこの世の人ではない。
 私は高齢の水俣病患者の冥土ばなしの一つにでもなればと思って今回の最終公演を承知した。途中で気がついたのだが、5,6人のわが現地スタッフで請け負える芝居ではなかった。正直、とても疲れた。
 われわれの身の丈にはやはり一人芝居がちょうどいい。直球一本で45年の伝統的な中身についても私には少々不満だった。「とても硬い芝居だったね」と言うとオルガナイザーの長沼氏は「その辺の芝居とは違います。運動の表現として劇団はあるのですから」と言って退けた。
 劇中の農民に自身の水俣病を重ねて見たであろう患者の方は、一様に感動していた。終わって患者主催の花見会に合流した劇団は歌や踊りも飛び出す歓迎ぶりに大いに感激し、酔っていた。患者の皆さんはいつも旅の人には優しいのだ。それにしても後片付けをようやく終えた夜の11時ごろ、体育館のわきで突然、スクラムを組んで声高らかに労働歌なんぞを合唱したのには驚いた。
 劇団「はぐるま座」と、この町で生きていく私の歯車は最後まで噛み合うことはなかったのである。