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芸術する人生
「お天とうさまのような うたの参ちゃん」
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旗野秀人(安田町水俣病患者の会事務局)
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「うたの参ちゃん」といえば、私の住む近郊で知らない者はいない。昔、村祭りや盆踊りに芸能大会と、参ちゃんの唄と太鼓は欠かせなかった。そして、まめな「働きもん」と同時に、ご婦人との艶っぽい話にもことかかない色男で、「遊びもん」だった、らしい。
この参ちゃんこと渡辺参治さんは、1916年生まれの84歳。5尺(約1.5メートル)足らずの小柄な身体ながらその声量は衰えを知らず、今なお現役の安田町水俣病患者の会「専属歌手」であり、安田大学民謡・古典芸能学科名誉教授という凄い「名前」を持って、付き人の私と全国各地を公演?などしては楽しんでいる。
もう20年ほど前になるだろうか、参治さんが新潟水俣病認定審査会からの棄却通知を持ってこられたのは。正直なところ、そのころの支援者気取りでいた私は、あの有名な「うたの参ちゃん」が水俣病患者であることに困惑した。自分の中にある「認定審査会」が理想の患者像を求めていたので、職業が川漁師ではなく瓦葺職人だったこと。川筋の集落ではなく、山手に暮らしていたこと。高齢にもかかわらず、よく働く「働きもん」だったこと。ついには大きな声でいつも唄を歌っていることまで、すべてが気に障った。熊本に比べ新潟は軽いという見方に腹を立てながら、いつの間にか参治さんのような身近な人たちを自分も差別していたのである。町中に知られた「うたの参ちゃん」を私の認定審査会が認めるまでには結構の時間が必要だった。それは無駄な抵抗のような行政不服運動を20年、国を相手取った裁判を10年、その中から生まれた映画「阿賀に生きる」の制作など、その時間の積み重ねが、「ニセ患者」のかたまりのような参治さんをようやく理解できたような気がする。
参治さんの父、庄松さんは、馬喰商売で、母のサダさんも唄が上手で、両親とも、大の唄好きだったという。
親の代からよ馬喰の商売
馬喰商売夜道引きだよ
俺と行かぬかよあの山越えて
可愛い駒っこのよ萩刈りに
駒よこの先峠にかかる
登り一里で下りも一里
峠越えればよ峠の茶屋よ
峠の茶屋で一休み
今朝も早よからよどの山見ても
霧のかからぬ山はない
おらの若いとき峠の茶屋で
猫が鯡食ってみな金払ろうた
可愛い可愛いと育てた駒よ
明日は馬喰の手に渡す
笠を片手に駒よ長々お世話になりました
この先風邪などひかぬよに……
参治さんは今、隣村の老人ホームにいる。ある夕食後に訪ねた時のこと、お隣りの入居者に気遣いながら声を落として歌ってくれた「馬喰うた」である。父、庄松さんが銚子の袴でポックリポックリ調子をとりながら幼い参治さんに唄って聞かせたものだという。
ひと文句ひと文句、70余年の時空間を越えて、ひとりで聴くにはもったいないほど哀愁に満ちたその名調子は五感に沁みた。それにしても凄い記憶力である。いつか参治さんの持ち唄の数をあらためてきいたことがあった。
「ハイッ、オラなんかはガエルマッチョ(おたまじゃくし)はさっぱりわがらんども太鼓さえ預かればしめたもんで、なんでもちゃれござれでありますでね、ハイッ」
なにしろ9つから村の盆踊りには櫓の上でバチを握り歌っていたというから驚く。そして翌朝、学校に行くと決まって先生にはこっぴどく叱られる。ところが両親は叱るどころか、大人たちと対等に歌っている参治さんをいつも誉めてくれたというからなんとも痛快な話だ。
14歳で安田村尋常小学校を卒業するとすぐに地元の瓦屋へ修行に入った。そこの親方がまた大の唄好きで、相変わらず夜遊びの修行も続ける参治さんを叱ったこともなく、むしろ「ぐしまつり」(家の棟を瓦屋さんが完成させた時に行う)や上棟式などで祝い唄を上手に歌う自分の弟子を大変喜んで、自慢してくれた。
富士の山から鷹飛んできた
茄子(なすび)くわえてこの館
銀の柱に小判屋根
石の土台が朽ちるまで
一富士、二鷹、三茄子
茄子くわえてこの館
この「追分」はめでたい席だけでなく、今でも歌いはじめの喉ならし(ウォーミングアップ)に参治さんがよく用いる唄である。
さて、5年間の修行を終え、19才で屋根葺き職人としてデビュー、ようやく一人前の金が稼げるようになって、半分は親に仕送りできると張り切って佐渡へ渡った。ところが、1年もすると、許婚(いいなずけ)のいる2つ年上の宿の女中さんと恋仲になってしまい駆け落ち、親への仕送りは夢物語となる。苦労人で心のきれいな女(ひと)だったが、ある日、朝鮮人の男にくっついて出て行ったという。
またもこれから文句がかわる お吉、清三の恋物語
国は上州七分の五厘 店も繁盛じゃ暮らしも豊か
家の娘でお吉といって 歳は16、花なら蕾
店の番頭に清三といって 歳は22で男の盛り
通う様子が度重なれば 母の耳にと、いつしか入り
そこでお吉をひと間に呼んで これさ母様なに用でござる
お前呼ぶのは余の儀にあらず 店の番頭にわけあるそうだ
思い切るきか、切らぬきか 母さんそれは無理ですよ
わしと清三の恋仲仲は 紙と墨とで染めたる仲よ
何がなんでも離れはしない そこで清三をひと間に呼べば
金の唐紙、サラリサッと開けて これさご主人何用でござる
お前呼ぶのは余の儀にあらず 家の娘にわけあるそうだ
これを聞いては置かれはしない 今日限りで出てゆかしやんせ
潔い清三は大阪生まれ 何も言わずにただハイハイと
出て行くのは清三の姿
参治さんの十八番、口説き節の「お吉、清三の恋物語」である。こうして参治さんがはじめて本気になった20歳の恋物語も1年ほどであっけなく終わりとなったのである。
阿賀野川の川筋も昔は雪が深かった。屋根仕事が途絶える冬場の半年間は県外の出稼ぎは当り前で、お陰で全国各地の唄をマスターすることにもなった。
わたしゃ生まれは安田の生まれ
節の悪いのは師匠とらず
声の悪いのは親ゆずり
器量の悪いのは二親製造株式会社の
クスリの調合が悪いので
それだから女ときたなら
団子に胡麻塩でカタ餅でキナコ
押しても押してもつきません
といった具合で、まずはその場を和ませ、沸かせる。唄の文句どおり、参治さんには特別な師匠は無く、まったくの「聞き覚え」なのであるから驚くばかりのコンピュータ頭脳だ。この唄も安来節の節ではあるが文句は自分でつくったという。
25歳のとき、少しは落ちつくようにと村中へ婿養子となるが、神楽組などに入ってはますます芸達者となって夜遊びにも拍車がかかり、めでたく男の子も授かるのだが連れ合いが病死し、落ちつく間もなく養子先を後にすることになる。
揃うたさえ 揃うたこと 踊り子がまた揃うたよ
稲の出穂のようによく揃うた
信州さえ 信州さえ 出るときゃ涙が出たが
今じゃ信州の風もや
那須のさえ 与一はや 三国また一だよ
男、美男でやれ これさ旗頭え
神楽組に入って覚えた「新保古代神」である。参治さんの太鼓が一段とリズム感を増し笛との絡み合いがなんとも心地良く、亡くなった兄の徳松さんとのセッションは絶品で思わず身体が動き出す。この頃、戦時中ということもあって新発田の陸軍病院へ「うたの参ちゃん」として慰問にも行ったという。
2年後再び、婿養子となるが徴用後、動員で石巻の海軍工廠へまわされ、終戦を東京で迎え無事に帰郷するが、相変わらずの「夜遊びの虫」が騒ぎ出し離婚させられてしまう。
ひと山、ふた山、み山越え
その奥山には紅葉山
紅葉の下には鹿がおる
鹿はホロホロ鳴いておる
これこれ鹿さんなぜ鳴くの
私の鳴くのは他じゃない
遥か向こうの木の陰で
六尺余りの狩人が
五尺二寸の鉄砲担ぎ
前に赤毛の犬連れて
後には黒毛の犬連れて
あれに撃たれて死んだなら
撃たれて死ぬのはいとわぬが
後に残りし妻や子が
どうして月日を送るやら
思えば涙が先にたつ
これも神楽組の踊り子衆には無くてはならない「出雲節」だ。「口説き」の文句もよく用いられて、踊り子衆の踊り疲れるまで延々と続き、
唄の文句はまだまだあるが
余り長いのは踊り子のほうで
どうしてくやると横目で見やる
まずはここらで段止めまするがよ
となって、ようやく踊り子衆は解放されるのだった。
5年後、心機一転して実家の敷地の片隅で再々婚の嫁を迎えるのだが、やはり病死で縁がなかった。7年後、再再々婚を決意し、やがて長女が生まれる。ようやく親子3人の暮らしが始まったのだが、5年後にはまたもや連れ合いが病死、なかなか幸せは長く続くことがなかった。45歳で親子ほど歳が離れた女(ひと)と再再再々婚に踏み切るが、次女が生まれるとまもなく出ていった。この頃から水俣病も発病、仕事も思うようでなく生活保護を受けながら実弟の納屋を借り、極貧の男手ひとつの子育てが始まった。
さて、参治さんの凄いところはここからなのだ。名前のとおり、朝は3時に起きお経を唱え、飯前仕事をこなし普通に出勤もする。そして、祭りや盆踊りがあれば子供を背中に、相変わらず「夜遊び」にもしっかり出かけて行く。それを見た女子衆はきまって「子守りしててやっから、櫓の上でおもいっきり歌うてきなせえ」と声をかけてくれたという。新興宗教にも勧誘され、入会はするのだが、根っからの祭り好きの性分は、いくら幹部の人に咎められても八幡様のお祭りは欠かしたことがなかった。どんな境遇にあろうとも、とにかく一生懸命働いて、一生懸命遊ぶ、貧しさや障害までも唄によって「生きる力」に転じていく天真爛漫な姿勢が凄い。
年に一度の町民運動会
勝っても負けても笑顔でご挨拶
またの明日を楽しみに
みんなで仲良く頑張ろうじゃないか
安田町は町中あげての運動会がある。この唄は地元チームの応援歌として「ラバウル小唄」に参治さんが文句をつけて町内会の皆さんに誉められた代物。
そろそろ50歳に手の届く頃、レコード歌手デビュー「未遂事件」があった。最も得意とする「安田盆唄」と「口説き節」をレコードに収める話で、町の人は勿論、プロの民謡歌手まで参治さんを先生と呼んで教えを乞うたのだ。ところが、途中から、「訛りがある」「発音が悪い」「卑猥な歌詞が多い」「参治さんの節まわしは五線譜に表せない」などの理由で、プロの民謡歌手に替わり、しかも文句や節まわしまでもすっかり様変わりしたレコードとなって、今に歌い継がれている。
ハーお城恋しや 見上げる月に 映るお堀の夢の跡
ハー宝珠山から吹きおろす風は 音に聞こえただしの風
ハーお国自慢の欅を植えて 安田繁盛の火除け土手
ハー薪を切らねば冬暮らされぬ 春の四月は山通い
ハー出たかだしの風一夜さつのる 安田一番の暴れ者
ハー逢いに行こうか新江あたり 光る源氏のほたる宿
ハー虚空蔵観音様お相撲取れば 負けた縁日雨になる
ハーだしの風にも縄張り御座る 虚空蔵様から観音様まで
ハー河渡砂山 白帆の港 大八車や馬車の道
ハー阿賀の渡り場三郎池に 漆金覆輪の鞍が浮く
これが新しく作られた「安田甚句」。文句も変えられプロの民謡歌手が歌ったもの。さて我等の参治さんの正調?「安田盆唄」は次のようになる。
ハー安田名所の知らない方に 教えてあげましよ ヤロ コレサ三度栗
ハー安田恋しや八幡様の 森が見えます ヤロ コレサほのぼのと
ハー太鼓〆くれ 〆てくれ太鼓 太鼓〆なきゃ コレサ踊られぬ
ハー踊り踊るなら品良く身良く 石の地蔵さんも ヤロ コレサ動き出す
ハー逢えばさほどの話もできぬ 逢わずに帰れば ヤロ コレサ眠られぬ
ハー逢いに行こうか千里の道も 逢わずに帰れば ヤロ コレサまた千里
ハー下へ下へと流れる水は 新潟女郎衆の コレサ化粧の水
ハー入れておくれよ痒くてならぬ わたしゃ独りが蚊帳の外
ハーおらもなりたや桶屋さんのカカに 足にさ絡んで ヤロ 尻叩く
ハー庵地若衆と野山のカラス 色が黒いほど ヤロ コレサ味がある
ハー入れて二三度こね繰り回す 白い水出す ヤロ コレサざるの水
これはまだほんの序の口。「怪しく、危ない」文句がまだまだ続くのだが、この度は遠慮することにした。掛け声のヤロ(野郎?)も下品だと言うことでレコードでは「ヤレ」と改められたとかいうから痛ましい。参治さん得意のひとつ「口説き節」はもっと悲惨でまったく違うものになってしまっている。
わしは三角、櫓は四角 四角四面の櫓の上で
音頭取るとはお恐れながら 平にお許しなされて賜え
平にお許しなさるるならば ぽつりぽつりと文句にかかる
かかる文句は何やと聞けば 文句知らねば歌われませぬ
ここらあたりでまっぴら御免 御免ならぬばお歌いますが
ハイカラ姉さん抱いて寝るような うまいわけには参らぬけれど
ポツリポツリと読み上げまする 今日は北野の天神川で
七つ子女郎が青菜をさわす そこに船頭さん船乗りかけて
この子良い子だ良い器量の子だ もうちと大きけりゃわが妻なりょが
あまり小さくてわが妻ならぬ そこで船頭さん良く聞きなされ
川の中でも大川、小川 川が小さくともやしょむじゃないよ
川が小さくとも水瀬が早い 船の中でも大船、小船
船が小さくともやしょむじゃないよ 船が小さくとも波の上走る
竹が小さくともやしょむじゃないよ 竹が小さくとも桶の箍締める
わたしゃ小さくとも 殿の腰締める
またもこれから文句が変わる 忍び上手で忍ばせ上手
毎夜、毎晩裏の戸を 開けて連れ込む色男
話が積もれば夜が更けて 一番鳥鳴く二番鳥
三番鳥にて目が覚めて 表に出て見れば雨や風
どうして殿ごを帰そうや 親方知れたる殿ごなら
コウモリ傘もあげましょうか 親方知らない殿ごなら
コウモリ傘もあげられず 私の半纏裏に着て
晒しの手拭い頬かむり 互いに見合す顔と顔
帰る貴方は良いけれど 帰す私の身の辛さ
これに懲りずにまたおいで
この参治さんの「口説き」で、踊り子衆は一晩中踊り明かすことができた。いくらでも文句が繋がる大作で「謎かけ」や「新発田子守子口説き」などネタが尽きない。それがレコード化となると「安田名所名物口説き」と名称も変わって観光案内のような歌詞となってスマートになる。
さても安田の名物口説き 名所名物数ある中に
一に一番八幡様よ 春の祭りに稚児舞揃う
秋の祭りに四役者揃う 若い衆総出の揉み合い祭り
二には二本松見事でござる 澄んだ湖水を覗いてござる
めおと夫婦の名称でござる
三に三度栗親鸞様が 諸国行脚の一夜の宿で
数え広めたその焼栗は 三度花咲きヤハズに茂る
四には城ノ越お城山ござる 山を囲んで大堀小堀
廻るお堀にや大鮒小鮒 鮒っ子目っ子で昔を偲ぶ
五には御覧うじ煙が絶えぬ 越後名物安日の瓦
背丈降っても強さにや負けぬ 鬼に例えた鉄色瓦
と、こんな調子で十番まで続くのだが、なんとも様変わりしたものである。
私は参治さんと出会って二つの大きなことを教えてもらった。
ひとつは水俣病の専門家(認定審査会)では理解(判断)できない「お天とう様」のような生き方(リハビリ)をしている水俣病患者もいること。
もうひとつは、音楽の専門家が理解(五線譜で表せない)できない「本物の芸能者」もいることである。しかし、いずれの専門家もなんと薄っぺらなものよ、と思ってしまう。
今、私は参治さんと、声が掛かれば「冥土の土産ツアー」などと言っては何処へでも出掛けて行く。水俣病患者の交流会や学校の公害授業に老人ホーム。歌うことが苦手な私は、お酒が駄目な参治さんの代わりに飲んでやることが仕事。参治さんはいつでも何処でもどんな唄でも歌いまくってくれるものだから、世代を越えたファンが全国各地に出来た。お陰で付き人の私も、もったいないほど幸せな気分でいられる。
とにかく唄が何よりも好きな人なのだ。早朝に目覚めると誰もいないリハビリ室で人知れず汗を流しながら口ずさみ、食堂でも一番乗りで歌う。隣りの特老棟に唄のボランティアに行き、施設訪問に来た子供たちと一緒に歌い、夜、布団に潜ってからもまだ歌っているものだから、隣のおばあさんに注意をされてしまったと笑う。
最近、坂本九ちゃんの唄を覚えたからといって披露してくれた。なんとも参治さんらしい唄だった。
幸せなら手をたたこう 幸せなら手をたたこう
幸せなら態度で示そうよ そら、みんなで手をたたこう
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