|
私と水俣病
|
旗野秀人(安田町未認定患者の会事務局)
|
60年代後半から70年にかけて、まだ世の中に少し緊張感があった時代、私も家の中で本ばかり読んでいることに不安を感じ、何かをやらねばという思いにかられている頃でした。
20歳の時、広島へ行ったのがきっかけで、その後も時々ひとりで反戦デモなどへも出かけてみました。そして71年の暮れ、三里塚へでも支援に行くつもりで夜汽車に乗りました。東京駅に着いて少し歩いてみると、熊本の川本輝夫さんたちの、チッソ本社へ直接交渉のためのテントが張ってありました。一応、ニュースなどでこのことは知ってはいましたが、まさか、東京駅前にあるとは思っていませんでした。ここで、チッソのまったく誠意のない態度に抗議し、患者さんの支援のためハンストをやっている人たちと出会いました。当時「展望」の編集長をやっておられた原田奈翁雄さん、筑豊の作家上野英信さんたちでした。私もハンストに加えてもらいましたが、あの原田さんの患者さんに寄せる熱い思いと、上野さんの飄々とした中での骨太の思想には感動させられました。
テントには、毎日いろんな人たちが訪ねてきましたし、緊張感があふれていました。この川本さんらの自主交渉闘争はこの後1年余りも継続されてゆくわけですが、この長い闘いを支えてゆくのが同世代の若者たちだったのです。ハンストも何日かたって、川本さんに声をかけられました。「新潟の情況はどうなっていますか」。もちろん私は何も答えることができませんでした。「新潟の高見さんという人を知っていますか」。はずかしいことに、私は新潟についてまったく知っていなかったのです。原田さん、上野さんたちとの出会い、そして川本さんの一言が私を新潟へ戻らせ、一生かけてやる水俣という仕事を与えてくれたと思っています。
71年9月29日、新潟での原告勝訴判決が出て、明けて72年、初めて、横雲橋から上流からも患者として認定されました。そしてこの年からわが安田町からも認定患者が出はじめることになるわけです。現実的にはひとりでどう動いていいやら、ずいぶん悩んでおりましたが、とりあえず認定とされた人たちを訪問し、話しを聞くことからはじめました。その後、新潟の“水俣病を考える会”の人たちが、東京からの連絡で地元で活動している者がいると聞いて訪ねてきました。当時、考える会には京都から新潟へ水俣をやるため来たという高見優さん、その後もずっと私にいろんな影響を与え続けた丸山徹さんたちがおりました。
しばらくの間は、認定申請の手伝いや行政不服審査請求の手伝いを一緒にやっておりましたが、なかなか思うようにゆかない場合もありました。個人的には一応、大工という職業を持ってはいたのですが、まだまだ半人前のくせに、二足のわらじを履こうとしていたこと、小さな町なので学生風の連中が、会社や現場を訪ねて来るのがイヤに目立ったこと、地元の人間が、地元で何かをやろうとすることがいかにきついことか、ずいぶんと当時は悩んだりもしました。
73年3月、安田町の青年研修所で白川健一先生らによる自主検診が行われました。県は一斉検診で、患者はひろいつくされたとして、本人申請制度に切りかえたわけですが、千唐仁や小浮の川筋の人たち、船頭さんたちが中心になって町長さんに願い出ての自主検診で、有所見者が20数名もあったのでした。このことは、まだまだ潜在患者がいるんだという裏づけとなりました。そしてこの時、受診できなかった船頭さんやその家族の人たちが中心となって、その後展開される“地元で集団検診を実現させる会”と発展してゆくのでした。
子供の頃、阿賀の川筋部落でも砂山あたりへは、舟遊びや、泳ぎに行ったことはありましたが、町の一番下の部落である千唐仁あたりは、ほとんど行ったこともありませんでした。“実現させる会”の中心的人物であった市川栄作さんは、千唐仁部落の川船の船頭さんです。最初に訪れた時、奥さんに言われました。「今日限りにしてほしい」。この言葉は忘れられません。しかし、足を運ぶ回数がふえ、ますますこの人しかいないと思うようになったのでした。阿賀と川船のことしか知らないといわれる栄作さんは、部落での信頼も厚く、奥さんは、若い人にも年配の人にも人気がある人です。それまで部落での水俣の話しはタブーとされていましたが、栄作さんの呼びかけで船頭仲間が数人集まって、初めて話し合いの場がもたれました。まだ一度も検診を受けたことがない人、認定棄却された後もどんどん体が悪くなっている人、申請しようにも診断書を書いてくれる医者がいないこと、ずいぶんとまだまだ問題がたくさんあることが確認されました。とにかく、部落内でもっと水俣の話しを出して、仲間をふやしてゆこうということになったのです。75年か76年の春、27名だったと思いますが、町長へ73年と同じような検診をやってほしいと署名を添えて、代表が町役場を訪れました。
町長は要求書をみるなりテーブルに放り出しました。「人にものを頼むのに要求書とは何ごとだ」「このテープレコーダーは何だ」と、頭ごなしでやられました。私にとっても、まったく初めての体験でしたし、部落の人たちにとってもショックなことでした。栄作さんは町長と同級生だそうです。せいぜい30分程度の交渉でした。まだお昼前だったと思いますが、千唐仁に帰ってみんなでコップ酒を飲んでしまいました。
要するに、本人申請制度があるのでもはや一斉検診のようなカタチをとる必要性はない、水原郷病院院長と親しいから、いくらでも紹介状を書いてやる、と言ったことなのです。道路普請の請願と同じレベルでとらえていたのが、あまりのいつものオラが町長さんとは違いすぎるので、みんなは整理がつかなかったようです。
この後、新発田保健所の所長が安田出身の人だから頼んでみようともなりましたし、地元の自民党県会議員や、新大の故白川先生、県衛生部とありとあらゆる人たちに相談し、お願いしてゆくことになりました。最後は、県会で社会党の中川三七氏が取り上げてくれましたが、君知事の本人申請制度がある、未検診者の処理が先であるとの答弁で一応の幕が降ろされてしまいました。この間、会員数も50名ほどになり、マスコミにも取り上げられ、なぜか代表の栄作さん宅へ巡査が行って背後関係を聞いていったとか、町長が部落に説得工作に来ることになったとか、毎晩のように集会をもつ緊張した情況にありました。
結局は、共闘会議の小林さんに頼み込んで、勤医協の下越病院の手で、自主検診というかたちで実現しましたが、これも満足なものとはいえませんでした。76年の暮れに、大和地区集落センターでやったと思いますが、そこでなんらかの所見があった人は、新津の下越病院まで行き、検診をやり、レントゲンもとる、それでもけりのつかない人は新大の故白川先生の診断を受けるといった方法で、かなりの経費がそれぞれの負担となりました。もちろん体力的な負担も当然ではありますが。もうひとつ問題だったのは、行政不服をやっている人たちが受診できなかったことです。明確な理由はなかったようですが、行政不服は共闘会議として取組んでいないこと、木戸病院の斉藤恒先生のところへでも行ってほしいとのことでした。それに、なぜか検診結果を出ししぶってなかなか私たちに見せてくれなかったことが、残念でなりませんでした。結局、共闘の小林さんからすでに表に整理されているものをようやく、手に入れることができたのでした。
77年の正月、私は棄却された人たちの県よりの弁明書の山をかかえて、木戸病院の斉藤恒院長を訪ねました。72年に沼垂診療所所長時代に、五十嵐キヨさんの検診で会っているのですが、正直なところ行政不服の話しを頼み込むのが不安でした。弁明書の山の前に、私はなぜ自分が水俣をやっているのかを理解してもらうために、阿賀の歴史関係をファイルしていた1冊をまず差し上げました。そして行政不服をお願いできるのはもう先生しかいないと、かなりしつこく診療室でお願いしたのを思い出します。「ようし、一緒にやりましょう」。先生はそう言って下さいました。こんなに喜しいことはありませんでした。この後、斉藤先生は安田の行政不服の闘いに唯一、行動を共にしてくれる先生でいて下さいました。口頭審理が開催される時は必ず半日、補佐人として出て下さり、その打ち合わせには、どんな遅くともいつも時間を空けておいて下さいました。院長宅でインスタントラーメンを二人で食べたり、裁判にこぎつけるまでは、なんとか持続しがんばろうと、励ましてもらっていました。斉藤先生との出会いで新潟水俣病研究会へも仲間入り出きましたし、千唐仁部落の健康調査報告も二人で京都の社会医学会に参加し、発表して頂きました。
77年の11月末、新法による行政不服の口頭審理が初めて新潟で開催されました。裁判と同様な方法ですすめられるものですが、まったくどのような準備が必要なのか、作戦の練りようもありませんでした。忘れもしません仕事の現場が町立大和幼稚園でとても大きな仕事でした。何人か大工の応援ももらっていました。私の担当の現場でもあり墨付けもやっていたのですが、ちょうど建方、上棟の日と第1回の審理と重なってしまったのでした。当日の現場は、とても混乱したそうです。ずいぶん悩み、苦しい思いをしましたが、私は水俣をとってしまいました。今でもそうですが、会社の職人仲間にどれだけ迷惑をかけ世話になってきたか、職人仲間や家族が、一番の支援者であってくれたと感謝しています。その後、かなりの数の審理をやっているわけですが、いつも開催される1週間前頃から決まって私は下痢におそわれる持病をもつようになってしまいました。
77年の12月21日だったと思います。若い奥さんが、病苦で細い細いいちぢくの枝で首をくくって命を絶ってしまいました。ダンナさんは、やはり水俣病を棄却になっている人でした。奥さんは、なかなか申請に踏み切れないでいたところでした。早朝でまだ家族が寝ていた頃の出来事です。その前の晩、奥さんは私に、「クスリはからだに合わないようだし、灸や薬草をはじめたらバカにいい按配なんですヨ」と話してくれていました。ダンナさんは、「これまでの苦労が水の泡になってしまった、悲しいよりくやしい」と涙を流しておられました。結婚してほんとうに元気に過せたのは何年もなかったそうです。夫婦でからだが弱く、しばらくの間生活保護も受けていた時期もあったといいます。子供たちが4人、長女が17歳、長男15歳、次男13歳、次女が11歳、みんな本当によく家のことを手伝います。経済的には苦しいけど、ずいぶんまとまりのある家庭だなあといつも私は訪れる度に感心しておりました。小浮の加藤さん宅で小さな集会をやっている最中に電話をもらったのでしたが、私には信じられませんでした。すぐに飛んで行きましたが、私もくやしくてくやしくて、声を上げて泣いてしまいました。自分の力のなさをつくづく思いしらされたのでした。何のために足を運んでいたのだろう、何のために自分は水俣をやっているのだろうか。その後、私はしばらくの間、年が明けて一月余り、泊まり込んでダンナさんの話しを聞いたり、子供たちの相手をしておりました。17歳の長女が後追いをするのではないかと、ずいぶん心配もされていたものですから尚のことです。
今では、子供たちもみんな成長し、長女は2児の母に、長男は高校卒業後、親戚の大工へ弟子入りし、次男は私の会社で今年修行を終え、一人前の大工となり、次女も高校を卒業し、今では勤めています。40歳ちょっとの若さで一人で苦しんで逝ってしまったお母さん。子供たちも今思えばくやしくて残念でならなかったと思います。
この頃、阿賀の病院へ、新大の故白川健一先生が週1回、来ておられました。何度かお会いしてはいたのですが、「水俣病をどうとらえるか」でずいぶん議論したことがありました。白川先生は、「君のいうのは理想論だ、ボクがやろうとしているのは、現在の立場で自分が出来ることは何か、機械やデータ-で症状を客観的にとらえ、椿先生たちにつきつけていくしかないと思っている」とハッキリおっしゃっていました。私はまったく検査も受けず自らの命をたってしまったこのAさんの話しを出して、一番ひどい被害例ではないか、機械やデータ-をいくら駆使しても、そんな医学では救えないと食ってかかったのでした。まだずいぶんAさんのことでは興奮状態が続いていたものですから、十分、先生の立場、特に学内でそういった独自の動きをされるきびしさが、わかっていたつもりなのでありましたが、今になっては申し分けない気持でいっぱいです。先生はいつも自分のクルマで自分で運転して安田へ足を運んでおられました。棄却された人たちの尿がほしいといって、一緒に廻られた時もそうでした。白川先生の思い出でもうひとつ忘れられないことがあります。たった一度だけ、口頭審理の会場に見えられ、処分庁の県衛生部の弁明者の説明で、突然、傍聴席におられた先生が大声で「デタラメを言わないでほしい。私はそんな風に説明した覚えはない。正確に、正しく言って下さい。とんでもないことを言わないで下さい」と上村さんに激しく抗議したのでした。もちろん傍聴席からの発言はすぐに審査員に封じられてしまいましたが、先生は休憩時間にも上村さんの席まで行って、自分のカルテと県の弁明書の内容が食い違っていることを指摘していました。あの頃県の代理人として出ていた上村さんは、まだ大学にも籍をおいていた頃であったと思いますが、あの白川先生の激しい抗議にタジタジでした。その後、白川先生に正式に補佐人になって頂くようお願いはしたのですが、断わられてしまいました。
78年の冬、2月頃だったと思います、結構雪がありましたので。市川栄作さんが突然動けなくなったと、奥さんからの電話が入りました。息子さんが出稼ぎで夫婦2人きりの生活だったのです。駆けつけたものの私にはどうすることもできず困ってしまいました。外は吹雪の夜でした。私は考えあぐねた末、認定された患者さんたちがよく通っているという新津の鍼灸の先生を思い出しました。田中さんといって若いけど、とても腕がいいともっぱらの評判だったのです。とにかく何とかしなければならないという思いだけで、まったく知らない田中治療院を訪ねました。詳しく説明もできず、とにかく自分にとっては、とても大事な人で動けないでいる、何とかしてほしい、お願いしますの繰り返しでした。何がなんでも連れて行かねばと思い込んでいたのです。田中さんは、往診はやってない、特に夜はダメだと断わりました。両親も出てこられ、「この子は目も不自由だし、とても出せない」と断わられてしまいました。どのくらいの時間ねばっていたでしょうか。とうとう、田中さん自身が、「よし、行きましょう!」と言ってくれたのです。後での話しですが、とても不安でならなかったが、なんで肉親でも親戚でもない人に、そんなに一生懸命なのか不思議でならなかったが、とにかく一生懸命なので行く気になったと言い、両親もとても心配で絶対に出させたくなかったのだそうですが、最後に本人が行くといったのでどうしょうもなかったと言われてました。
その夜は、またよりによって、すごい吹雪で道路は凍結し、途中で私のクルマは何度か雪の壁へスリップして体当りをし、田中さんをヒヤヒヤさせどおしでした。正直なところ、私もまだハリ治療に対しては、疑問もあったのでしたが、栄作さんの治療を目の当りにして、すごいものをみてしまったという感じでした。まずはいろいろと話しかけて、患者さんの気持をやわらげ、足の先から頭のてっぺんまで30分以上かかったでしょうか、まったく動けなかった栄作さんが、なんともう動いているではありませんか。涙もろい奥さんは泣いて喜んでました。お礼の米や野菜にまた田中さんも感激したらしく、帰りのクルマの中では、もう私たちは友だちのように話し合っていました。同じ年齢であることもそうさせたのかも知れませんが、その後も我会の新年総会にはよく来てくれましたし、良き理解者で大切な人のひとりでした。
80年の春だったでしょうか、全盲の彼と、栄作さんの看護婦をやっていた次女と、いろいろなハンディをのり越えてうまい具合に結婚することになったのです。そして、このカップルを仕掛けた張本人である私のほうも、彼からのお返しで盲学校の友だちだったという、今の女房を紹介してもらったのでした。私はそれまではほとんど毎晩のように各部落へ出かけ、家にはおりませんでしたし、母が心配して30過ぎているのだから、毎月1万円ずつでいいから預けるようにと、きつく言ってくれたのですが、正月から始めて4月にはすっかりおろしてしまう始末で、まったく自分の蓄えはありませんでした。母にはよく言われました。「まったくどこの子かわからん、ともすると何日も顔をみないことさえある」と。私はずいぶん家族に恵まれたと思います。とくに母はどんなメチャクチャな友だちが来てもちゃんと扱ってくれました。ほんとうにどれほどの人たちが我家を訪れたでしょうか、熊本から京都から、大学の先生や新聞記者、お医者さん、実にさまざまな人たちが来てくれました。そして長い人は1週間も泊り込んでいく人もありました。あれはいつの正月だったでしょうか。西日本新聞水俣支社の島村さんという記者が正月休みを利用して、個人的に新潟水俣病の基礎取材に来たことがありました。私はいたく感動して1週間、つきあいました。その後も東京で一度会うことがありまして、ずいぶん懐かしく語り合いました。
81年の夏、私は、結婚する前に水俣を彼女に紹介しておきたいことと、82年春にいよいよ第二次訴訟が提訴されようとしている時、熊本の状況はどうなっているのか、現実的に症状の違いはあるのか、確かめたかったことでもあり、二人で熊本を訪れました。協立病院の藤野先生と、斉藤先生の紹介で会うことができました。多忙な中、ずいぶんと時間をさいて下さいまして、私が持参した新潟で棄却された人たちのカルテと、水俣の第三訴の原告と比較して頂きました。要するにほとんど新潟と熊本では差がなく、ともすると熊本の三訴の原告の中では、感覚障害すらハッキリしない人まで含まれていました。新潟でのランク5にあたる人たちです。私たちは行政不服の場でも一貫して阿賀の川魚を食べ、なんらかの健康障害があればいいではないかと主張してきました。藤野先生の説明で少しは心強い思いで裁判に臨めました。先生は病院内でも彼女がリハビリが専門のこともあって、ずいぶん詳しく説明して廻って下さいました。その後、被害者の会事務局の方からも1日たっぷりと水俣を案内して頂きましたし、宿泊の世話までして頂きました。
実は私は76年に一度水俣に行ってました。ちょうど検診を実現させる会の運動が行き詰っていた頃でした。当時の考える会の丸山徹さんも行ってまして、現地で行動を共にしました。あの時は、堀田静穂さんという保健婦さんがまだ移動診療所をやっておられた頃と思いますが、バイクで部落を駆け廻っていたようでした。堀田さんたちがやっていた患者さんの症状や聞き取りのファイルの山をみせてもらい、自分の今後10年間の仕事を教えられた気がしました。とにかく地道にいつか運動の役にたつだろうと、その中味の濃い資料づくりには感動いたしました。これは、本当に残念なことですけれども、新潟では、堀田さんや川本さんたちの話しがなかなかできない状況があります。現在でも熊本では日本共産党と川本さんの仲が、訴訟にまでもつれ込んでいると聞いています。まったく残念な事態です。それぞれがいい仕事をしているのですから、もうちょっと、なんとかならないものなのでしょうか。私たち二人も、熊本には、それぞれに親しい人や友だちがいるものですから、たいへんでした。前半は、共立病院と被害者の会、後半は、川本さんや堀田さん、砂田さんらを訪ね、熊本では、相思社の高合さんの紹介で熊大の地域医療研究会の例会にも出席し原田先生とも話し合いました。水俣駅は小さな駅ですので、帰り際、それぞれの人たちが見送りにきてくれたりして、あわててしまいました。もうあんな思いはしたくありません。東京にも、水俣のいい仕事をしている人たちが大勢います。これからは何とか、一緒になって闘いたいものです。相手とする敵は同じですから。
夏の水俣行きを終えて、私たち二人は、12月に一応の結婚式を挙げました。クリスチャンである彼女のたっての願いからやむをえず、セレモニーの苦手な私はそれでも、父の残してくれたダブルの礼服をちゃんと着て、東中通り教会でやりました。翌日、私は好きにやらしてもらうからと、小泉仲之氏を中心とする友だちが実行委員会を作り、これまで私が水俣を通して知り合った200人以上の人たちから、参加してもらう大集会となりました。
私はずいぶんと駄々をこね、わがまま放題で水俣とかかわってきました。多くの人に迷惑をかけ、お世話になりました。特にその中でも加藤のジィちゃん、バァちゃんには世話になりました。口頭審理が終えて神経がズタズタになって行くところがいつもジィちゃんのところでした。暮してゆく、生きてゆく一番大事なところを教えてくれたひとだと思っています。そしてこの日、私たちは加藤のジィちゃん、バァちゃんの金婚式も合同でやったのです。新しい仕事をやり始めたばかりの径書房の原田奈翁雄さんとも多忙の中、10年振りの感激の対面ができました。私は確かこの時、お礼の言葉の中で「私が水俣を通して出会った人達が集うことによって、また新たな支援の輪が広がり、私たち二人が一緒になることによってまたそれぞれがいい仕事ができるようにならなければいけない」といったようなことを述べたように思います。ごちそうも何もない集いでしたが、あの熱気は初めての体験でしたし、感動いたしました。 82年、第二次提訴の年、長男游太郎が生まれました。84年次男游史郎が誕生し、この年は、公判の日に大きな交通事故にあったり、暮れには火災にあったりで、波乱に満ちた年でした。それでも親子4人なんとか元気でやっております。これまでも、大切な多くの人を亡くしたり、話しつくせないほどの水俣にかかわるエピソードがこの15年間には山ほどあります。近頃、活動のペースがのろくなってきましたが、私は女房と出逢って生活するようになってから、暮しを通して水俣がみえるようになったと思います。自分の日常生活を抜きにして、水俣を語ることはできません。洗剤を阿賀にたれ流して、何が公害反対でありましょうか。本当にのろい進行状況ではありますが、数人でせっけんや安全食品の購入、千唐仁の人たちが作る無農薬野菜なども、やり始めました。子供たちにいかに水俣を阿賀を伝えてゆくか、私は暮しをとおして伝えてゆきたいと思うこの頃です。
我家の火災では、ほとんどが焼失してしまい、とくに私の部屋はさんざんでした。
それまで書き残したノートや、聞き取りのテープなど、一番の宝としていたもののほとんどが焼失してしまいました。いつかはなんらかのかたちでまとめたいとは思ってはいましたが、とてもそんな元気はなくなってしまいました。80年頃だったでしょうか、丸山徹さんが、「阿賀の岸辺にて」というすばらしくいい仕事を残してくれています。ずっと、いつかは続編をと思い続けていたのでしたが、とても残念でした。しかし、ここで越書房の関さんの励ましもあり、なんとかこの15年間を書きまとめてみました。こんなに書いたのはとにかく初めてですし、ほとんど資料がありませんので、年代や名称、その他あらゆる面で不正確なものしか書けません。お許し下さい。新潟水俣病第二次訴訟もまだ途中にあります、どうか皆様方の暖かい御支援をせつに御願いし筆をおきたいと思います。
|