発行日:2004年5月4日
著者 :里村洋子
発行所:冥土のみやげ企画社
 〒959-2221
 阿賀野市保田3210
 TEL 090-3649-8945

 

里村洋子プロフィール

1946年生まれ。
農民文学会員。
エッセイスト。
第34回農民文学賞受賞。
著書に
『福耳を持った男の話』(越書房)、『聞き書き 画廊たべ「絵のある茶の間」物語』(刊行委員会)、「映画のなかのちゃぶ台」(『ちゃぶ台の昭和』河出書房新社)、「農村の洋服化」(『洋装の時代』農文協)

 

 

 
瓦職人・新潟水俣病未認定患者
渡辺参治さんの聞き書き
「安田の唄の参ちゃん」

もくじ
・体操と唱歌が得意だった小学校時代
・瓦屋へ弟子入り
・19歳で瓦屋としてデビュー、佐渡へ行く
・最初の恋人、アキさんとの出会い
・昭和電工の社宅の屋根葺きに行く
・冬場は出稼ぎに
・屋根から落ちる
・二度の婿入り
・参治さんの戦争
・三度の結婚
・阿賀野川下流で水俣病発生
・水俣病かどうかの検査で病院へ
・二次訴訟第三陣として提訴する
・和解について
・療養手当てについて
・大腿骨骨折
・父が唄っていた博労唄
・難儀した母親
・ずっとずっと唄い続けます

 あとがき

 
あとがき

 「何たって失敗史だすけねえ」
 聞き書きをさせていただけませんかと訪ねた私に渡辺参治さんは、髪の毛が一本も無い、つるんつるんと滑らかな頭肌をなでながら、「それでもいいろっかねえ」と遠慮がちに言われた。
 参治さんは1916年(大正5)に安田町に生まれた。子どものころから「あまされっ子(いたずらっ子)」で、小学校47人中、47番目の成績で卒業。すぐに地元の瓦屋に弟子入りをする。19歳で瓦職人としてデビュー。春から秋にかけて瓦作りや屋根葺きを、冬期間はトンネル工事などの土方仕事で全国に出かけた。仕事はいつも一生懸命した。同様に、おなごしょ(女衆)との付き合いもマメにしたので、その結果、二度の婿入り、三度の結婚と相成った。
 屋根からも何度か落ちた。「むっちり真っ黒げな顔」になるほどの重症をおった痕跡は、つるんつるんの頭に今もくっきりと刻まれている。
 加えて、ある日から、足の甲がぱんぱんに腫れ、熱いだの冷たいだのの感覚が無くなったり、膝がやめたり(痛んだり)、ベロが乾いて思うように話ができなくなったり、耳鳴りがひどくなったり…というあんばいに、なにゆえかわからない症状が重なるようになる。
 参治さんのこんな症状がまだあまりひどくなかった1956年(昭和31)、熊本県の水俣市では、チッソ水俣工場が水俣湾に垂れ流した有機水銀により、海が汚染、そこで採れる魚を食べた人が神経を犯され、死にいたる痙攣を起こすなど重い症状を呈し、大きな問題になっていた。
 それから9年後の1965年(昭和40)、新潟の阿賀野川下流域でも同じような現象が発生した。原因は東蒲鹿瀬町にある昭和電工鹿瀬工場から排出された有機水銀と断定された。有機水銀で汚染された魚を食べたことによるものである。被害者たちは1967年(昭和42)、昭和電工を相手に謝罪と医療給付を求め、裁判を起こす。新潟水俣病第一次裁判である。
 阿賀野川の魚を食べたことが原因、という話を聞いた参治さんは心配になった。昭和電工の社宅の屋根葺きに行った時、排水口のそばに、「板渡せば歩けるくらい、いっぱいアップアップしていた」魚を、「ばか根性いいなあ」と思いながらたくさん食べたことを思い出したからだった。足の具合も「何だか、おかしげに」なってきた。しかし、この時期、安田町を含む阿賀野川の中上流域では、まだ具体的な検診や対策が行われておらず、また、小学生と3歳の子どもをひとりで育てていて、身軽に動けなかったこともあり、参治さんは第一次裁判には参加しない。
 新潟水俣病第一次裁判は1971年(昭和46)に原告勝訴で結審した。提訴4年という異例の早さであり、これで終ったかに見えた。しかし、事態はさらに深刻なものとして展開する。裁判が終った翌年から安田町を含む阿賀野川の中上流域でも、多くの患者が続出するのである。
 被害者たちは1982年(昭和57)、国と昭和電工を相手に第二次訴訟(第一陣から第八陣まで)を提訴する。今度は参治さんも腰をあげた。第二次訴訟の第三陣に加わる。
 裁判は長びいた。その大変さもあったが、参治さんにはもうひとつの大変さもあった。ガワ(側)の風当たりが強かったことである。船大工や漁師や砂利採取業のように阿賀野川と暮らしが直結しているわけではない屋根屋が、なんで水俣病なのか。それに参治さんは歩くし、走るし、しゃべるし、唄まで唄う。外見はどう見ても病人に見えない。ニセ患者。困った患者。「なに、水俣病であろうば」。
 そんな参治さんを支えたのは、大好きな唄であった。唄は、博労であった父と、暮らしに難儀した母の唄うのを聞いて覚え、「小さいこま(ころ)」からずっと唄ってきた。祭り、民謡大会、盆踊り、宴会…。「安田の唄の参ちゃん」はいつもひっぱりだこであった。
 新潟水俣病第二次訴訟は、提訴から13年かかった1995年に和解という形で苦渋の決着をみる。被害者の高齢化が進み、亡くなる人も多くなってきたことから、救済を早期に実現するために、新潟水俣病被害者の会と新潟水俣病弁護団、新潟水俣病共闘会議は、国との和解協定にやむなく調印した。内容は「水俣病とは言えないし、国にも責任はないが、解決金や医療費(カネ)は出す」というもので、従って、多くの患者は水俣病と認定されず、参治さんも「未認定患者」である。
 「未認定患者」の参治さんは、今、「安田大学民謡古典芸能学科名誉教授」の肩書きも持つ。参治さんのファン倶楽部の人たちがつけてくれた。この二つの肩書きを携えて、安田患者の会事務局を努める旗野秀人さんと二人、水俣病の語り部として全国行脚する日が続いている。二度と水俣病のような公害を起こさないためにも、水俣病のことを忘れてはいけないと語り継ぐためである。その話の後に大好きな唄も披露する。
 私が参治さんの聞き書きをしたいと強く思ったきっかけも、この唄だった。2003年の春、参治さんのファン倶楽部の人たちが、参治さんの米寿を祝って、『うたは百薬の長』というCDを出した。それを聴いて、普段着のようなぬくもりのある声に感動した。もっと多くの人にこの感動をおすそ分けしたい。
 ちょうど、NHKラジオ第一で地域の話題を提供する番組に出ていたこともあり、「祖父の背中で聞いた子守り唄のようです。阿賀野川を渡ってくる風の音のようです。ぜひ、みなさんも買ってください」と紹介、唄も少し流してもらった。全国放送なので何枚か注文があったよし。あー、よかったと思った後で、もっと参治さんのことを知りたくなった。参治さんという、仕事も、おなごしょとのお付き合いも、唄も一所懸命な、普通の人が、なぜか水俣病に罹らなければならなかったのかを知りたいと思った。
 聞き書きは楽しかった。1メートルと離れていないところで「博労唄」も聞かせていただいた。苦労の人生なのに、それをあまり外に出さない参治さんの本当の意味の汗と涙が、唄の底流から、あぶり出しのようにシンと浮かんできた。ライブのひとりじめに、もったいないなあ、他のおなごしょに悪いなあという気が、少しした。
 なお、本文中の人名については、一部仮名にした。また、安田町は2004年4月1日をもって合併により阿賀野市となったが、ここでは安田町のまま記した。
 最後に、この冊子をまとめるにあたり大変お世話になった旗野秀人氏に深く感謝申し上げます。
          2004年5月    里村洋子