坂爪勝幸さんが昨年来、陶の器―皿や碗の制作に熱中していると聞き、興味がわいた。
坂爪さんを直に識って私はまだ三、四年だ。その最初の頃は「リバーシリーズ」などユニークな立体が制作されていた時期だった。以前の器や壷類は、工房や展覧会場で見ていたけれど、リアルタイムでそれらが新たに生まれているとの話にわくわくした。
胎内市の工房をこの夏訪ね、緑釉や鉄釉の皿やコーヒーカップを見た。それらが置かれた大きい板が、休み時間の小学校の校庭のように、生き生きとした歓声で弾んでいる。目にこつこつと当たる、喜びの風がまぶしかった。のびやかに体躯をひねった大きなコーヒーカップの内側の、やわらかく泡立ったままそこにあるような土の肌が美しい。
力強いけれど、剛直ではない。実際以上に大きさを感じさせるが、威圧的ではない。色っぽいのにさわやかだ。器が器であることが楽しそう。
緑釉の皿を一枚一枚見ていると、上下に分かたれて施された、透明と不透明の間を流れるような緑が、まぶたの内皮のように感じられてくる。そのあわいに描かれる松や蔦や網など、古い器に描かれた絵の世界に直につながる筆致の絵の、けれど不思議なみずみずしさ。まるでまばたく目がまぶたを開く一瞬に吸う、既知のものに世界が固まっていく直前の新鮮な香り、気配が、掬われてそこに在るよう。
これらの皿に目立って新しいものはなく、日本のすぐれた古い陶器の脇に置けば、そのまま境目が見分けがたくなりそうだ。けれど、感じさせるものは新しい。現代的だと私は思う。
ルーチンワークに陥っていく現代の職人の在り方に、坂爪さんはしばしば厳しい意見を語る。桃山時代の職工たちは職人であり、そのままアーティストだった。日本の職工の系譜が生み出したものの生命を感じるから、こんなに力と魅力ある日本の器の作り手でありながら、坂爪さんはアーティストであろうとするのだろう。