風だるま No. 03
にいがた水紀行・3

 
鳥屋野潟ってどんな湖?
小船井秀一
 
  
 子供の頃、テレビでこんな光景を見たことがある。お百姓さんたちが、首まで(?)水に浸かりながら、稲を刈り取っていたり、小舟を水に浮かべて、それに稲を乗せて運んでいたりしている様子だ。それは、どう見ても僕が見て知っている田んぼの風景ではなかった。きちんと塗られたはずのあぜも判別できない、水路と田んぼの区別さえつかないそれは、どう見ても「湖」そのものだった。
 そのフィルムは、どうやら昭和初期から戦前にかけての物であるらしかった。そこに映し出された風景は、まさにその当時の亀田郷の水田のありさまだったのだ。「地図にない湖」――当時この地域はこう呼ばれていたという。その底に位置していた湖、それが鳥屋野潟だった。
 鳥屋野潟は、信濃川と阿賀野川という二つの大河による土砂の堆積作用によって、海岸沿いに次々と並んだ砂丘と砂丘の間の低質土にできた、数多くの潟湖の一つだ。時代が下がっていくにつれ、その地の湿地や潟は干拓などのために姿を消して、鳥屋野潟だけが最後に残った。亀田郷は海抜0メートル地帯が広がっているが、そのいちばん低い部分に鳥屋野潟があるというわけだ。
 潟の南岸に立って、全景を見渡す。風の流れが、アシ原をくぐって通り抜けて行く。葉ずれの音と野鳥の泣き声だけが耳に入り、それ以外は聞こえてこないような気がする。向こう岸に並んでいる建物たちが、小さく小さく見える。地図の上で見てしまえば、なんということもない小さな湖だけれども、実際こうして見てみると、やっぱり広いなと思う。これだけの湖が死にかけているんだな、と思うと、何ともやりきれない思いがする。
 どうにかしなければ、と誰もが思い、どうすればいいのかということも誰もが知っている。しかし、ほとんどの人は何もしようとせず、自分一人でやったってどうにもならない、と言い訳をして口を拭い、そのまま平気でいる。もちろん僕もその一人に違いない。人間というのは、まったく弱い生き物だな、と思う。そして、鳥屋野潟は相変わらず、新潟市民の汚水の捨て場所として汚され続け、ますます「死の湖」に近づいていく。そのことは取りも直さず、僕たち人間自身に直結するというのに。
 でも、鳥屋野潟はまだ死んではいないはずだ。何年か前、新潟の水辺を考える会のイベントだったかで、鳥屋野潟漁協の漁師さんが操縦する舟に乗せてもらったことがある。潟の北と南では水の色がくっきり違うのも驚きだったが、何と言っても、モーター船が湖面を走ると、その傍らをたくさんの魚がぴょんぴょんと飛び跳ねるのにはびっくりした。漁師さんはこともなげに「舟を走らすとよく跳ぶんだ」と言っていたが、初めて見た僕にとっては感動ものだった。聞いたところでは、あの魚はヘラブナということだったが、その他にも、コイだの何だのが結構棲んでいるのだそうだ。魚のほかにも、マコモやヒシなどの植物もまだまだ生息している。今のうちに何とかすれば、何とかなるかも知れない。と思わされる経験だった。
  子どもたちは水辺が大好き(鳥屋野潟)
撮影:村井勇
 

 昔の鳥屋野潟は、新潟で一番きれいな水をたたえたところだったといわれる。
 「昭和31年に水道が来るまでは、鳥屋野潟や清五郎潟の水を汲んできて、瓶に入れて木炭や砂などでこして飲んでいたんですよ」
 と、鳥屋野潟の南、清五郎に住む農業・増井忠一さん(69)は言う。ちなみに、清五郎潟は鳥屋野潟の南に位置する、少し小さめの潟だ。
 「お茶を出しても、清五郎の水で入れたのはうまいと、姥ヶ山あたりの人によく言われました」。
 増井さんは亀田郷の地で、ずっと農業を営んできた人だ。そして、鳥屋野潟や清五郎潟の移り変わりを、その目でずっと見てきた人でもある。昔と今では、全く潟の姿が変わってしまったと、増井さんはため息をつく。
 「川魚を煮るのにも、潟の水で煮るとうまかった」。
 往年の潟の水の美しさ、素晴らしさを、しみじみと増井さんは語る。
 かって、鳥屋野潟は汽水湖だった。今は埋め立てられた栗の木川から、日本海の水が入り込んでいたのだという。だから潟では、淡水魚のほか、ボラやスズキなどの海の魚、シジミも取れた。
 昭和23年、栗の木川排水機場ができてから、海水は入ってこなくなり、鳥屋野潟は淡水湖に変わる。梅雨や秋雨の時には広大な湖のようになった亀田郷は、排水機場によって乾田化が進み始めた。しかし、鳥屋野潟の水の美しさは変わりがなかった。地元の子供たちは鳥屋野潟や清五郎潟、それを結ぶ水路で泳ぎを覚えた。
 こんな話を聞くと、正直、うらやましいと思う。だって、新潟市内で泳げる川や湖があったんですよ、昔は。水辺っていうのは、結局、泳げるくらいきれいでなくちゃだめなんだと、僕は言いたい。そうでなけりゃ、好き好んで誰も水辺になんか近づきませんよ。きれいだからこそ、触ってみたいと思うわけだし、遊んでみたいと思うんだから。思わず遊びたくなる水辺づくりを、みんなで考えてしなくちゃいけないな、と考えるわけで。
 そんな美しかった鳥屋野潟がおかしくなり始めたのは昭和30年代半ばからだ、と増井さんは言う。潟の北側の都市化が進むにつれ、家庭雑排水が流れ込むようになってきたからだ。それからは、坂道を石が転がるように汚染が進み、とうとう今の状態になってしまったわけだ。
 しかも、この潟を金儲けの道具にしようと企む人まで現れれて、もう無茶苦茶。何せ、湖底の二束三文の土地を買い占め、埋め立てて大儲けしようってんだから。確かに、自然を保護し維持するなんていう発想は、高度成長期には誰も持っていなかったから、やむを得ないのかも知れないが、これでは鳥屋野潟は浮かばれない。さすがに市民の大反対でこの計画は頓挫したようだけど。どうせならこの際、気前よく湖底地を市に寄付してくれないかなぁ、角さん、いや今は真紀子さんか。
(この文章を書くにあたって、文中に登場する増井忠一さんのほか、鳥屋野潟研究会の久保田幸雄さんに貴重な資料を提供していただきました。本当にありがとうございます。というわけで、この項まだつづく)

 

 
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