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にいがた水紀行・8
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あなたは『やすらぎ堤』でやすらげますか?
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小船井秀一
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よかれと思ってやったことでも、それが必ずしも相手のためにならなかった、てなことはよくあることで。自分の思い込みだけが正しいと信じ込んで、それを他人に押しつけていい気になって、そのことが実はなんにも相手のためになってなかったなんて話はざらにある。だから、物事を始めるときには、何につけ慎重に多くの意見を聞き、よく調べ、多角的な視点で考えて行かなければならないってことになるわけだ。 こんなことは、考えてみればしごく当たり前の話で、いまさら僕が言いつのるようなことでもない。しかし、実際のところ、その当たり前のことができていないという例が、結構あちらこちらにあったりするんで、世の中と言うか、人間っていうやつはどうも困ったもんだと思ったりもする。 もちろん、僕自身も例外ではない。相手の置かれた立場や状況を理解せず、自分の考えだけが正しいと信じ込んで押しつけて、トラブルを起こしたりけんかになったりしたこともあった。今になって思えば、全くろくでもないことばかりやってしまったと思い、反省することの多い日々である、てなことを言いながら、またまた同じことを繰り返してしまうというのも情けない。 でも、どうやらそれは僕だけのことでもないようなので、何となく安心だ。ていうのは、世の中には、僕と同じ失敗を何度も繰り返して、しかもまるで反省もせず平気でいられる人もいるらしいからだ。 長良川河口堰のことは、この雑誌をわざわざ購読している人なら、僕以上によく知っていることだろうと思う。こいつはまさに、善意というか思い込みから始まって、後でどうもおかしいとわかっても、もはや引っ込みがつかなくなって、どうもこうもなくなったという代表的な例だろう。「週刊金曜日」や「アウトドア」などのメディアが詳しく取り上げているので細かくは説明しないけど、早い話、当初は東海地区の利水目的に発案されたが、水の需給計画に狂いが生じ、水はそんなにいらないことがはっきりしてきた。そこで今度は目的を治水に切り換えて(こんなにいい加減な発想で、こんな大工事をやっちゃっていいの、と常識のある人なら思うはず)工事を強引に進めてしまい、今日の混乱を招いた、とまあこんなところか。 出発点は確かに「善意」なのだろう。もちろん、今となってはゼネコンの利権や役所のメンツなんかが絡んでドロドロだけど、初めから「悪いことをしてやろう」とか、「地域住民をだましてやろう」なんてことを考えてるわけはないはずだ。河口堰ができれば地元の産業が発展し、住民の幸福につながると思ったからこそ計画されたに違いない。 でも、今となっては、それは間違いだったということが明らかになった。明らかになったのだから、さっさと計画を変更し、工事を中止すればいいのだけれど、なぜか未だに工事は続けられている、そのことが問題なのだ。 自分のほうに誤りがあった、失敗だったと気づいたら、素直に反省し、謝ってしまえばいい。そりゃ初めは怒られたり批判されたりするだろうけど、ちゃんと反省したなら、いつかはみんな許してくれる。それを、何やかやと理屈をこしらえて、無理を通して道理を引っ込ませるようなことをやってしまったら、普通はけんかになるよ。それをやっちゃっているのが、国家公務員たる建設省なんだから困ったもんなわけで。これと全く同じ例が、島根の宍道湖の淡水化事業。あれは結局水門を閉めないで運用を凍結することで解決したみたいだけど、工事そのものは全部終わってるんだから、全く無駄遣いをしたものだ。たぶん長良川河口堰も、これと同じ結末になるのではないか。しかし、誤りを認めず、すっかり居直ってメンツを保つだけのために行動するというのは、全く情けないし、かっこ悪い姿だと思う。 さて、その建設省が、新潟市民のためによかれと思ってこしらえたのが、例の「やすらぎ堤」。信濃川左岸の、昭和大橋の上流から下流にかけて、緩やかなスロープを描いて広がる芝生の広場だ。堤の最上部には、あずまやや公衆トイレがしつらえられ、並木や植込みなどが配されている。水際は階段状の岸辺になっていて、危険が少ないようにしてある。少なくとも、矢板を打った垂直の護岸よりはましだろう。休日などは、結構な数の市民が訪れ、ひなたぼっこやボール遊びなどを楽しんでいる。僕も末席を汚している。「新潟の水辺を考える会」なんかは、ここでよく宴会じゃないや集会を開いたりもしている。こういうのを見るかぎり、建設省の思惑はとりあえずうまくいっているように見える。でもね、やっぱり僕は不満なんですよ。何か面白くないところがあるんだよなあ。 はっきり言って、やすらぎ堤には、どうも建設省の自己満足が極めて強く感じられてしまうのよ。「どうだ、オレたちだって環境問題には関心があるんだよ」「市民の喜びそうなアイディアを持っているんだよ」というような。実際、多くの人々は喜んでここを利用しているみたいだし、それ自体はいいんだけど、どうしても「何かが足りない」と思えてならないんですよ。 文句その一。だいたい、夏は暑い。だだっ広い芝生が広がってるだけで、木陰とかがあるわけじゃないから、ここに小一時間もいれば、体の弱い人は日射病になっちゃう。 文句その二。冬はやたら寒い。何にもなくてただ単に広いから、吹き抜ける風がやたらに身にしみる。だから冬はここには誰も来ない。 文句その三。ただ単に広いだけで、小鳥のさえずりとか、木々の葉ずれの音とかは全く聞こえてこない。「自然に親しみましょう、水辺で遊びましょう」という掛け声が空しく響くばかりなのだ。どうせやるなら、随所に立木を植えるとか、信濃川の水を取り込んだ渓流を作るとかすればいい。それができないところに、やすらぎ堤の限界があるのだと思う。 結局やすらぎ堤は、堤防に過ぎない、ということだ。堤防だから、でっかい木なんか植えられないし、自然公園のような細工も難しい。だから今のような形でしか存在できないというわけだ。もちろんそれがすべて建設省の責任と言うわけではない。制度や法制の枠を、行政自ら無視することはできないのは当然だ。でも、それを承知の上で建設省はやすらぎ堤を作った。そこに、僕は建設省の自己満足と思い込みを感じる。 (やすらぎ堤については、今後もまだまだかみつく予定です)
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