風だるま No. 51
新・にいがた水紀行・11

 
本当に水没させていいの? 奥三面遺跡群
小船井秀一
 
  
 岩船・朝日村の三面川上流部に建設が進められている奥三面ダムの完成後、新たにできるダム湖のために水没することが確定している奥三面遺跡群の見学会が、新潟の水辺を考える会の主催で、六月下旬の週末にあったので、取るものも取りあえず行ってみた。別に遺跡や古代史に格別の知識があるわけではないんだが、何やら、全国でもまれな、大規模で歴史的継続性のやたら高い貴重な遺跡群なんだそうで、そんなのが新潟県内にあるというところが、地域ナショナリストのぼくの心を刺激した、というわけなのよ。
 山奥にある(といっても、最近までちゃんと集落があった。今は村上などに移転してしまっている)遺跡群に行く前に、旧三面小学校だった奥三面遺跡調査室に立ち寄り、調査員の方の説明を受けながら、発掘・復元された数々の出土品を見て回る(=写真1)。これまでの出土物の量は、60×40×20センチの箱で約9000箱だそうで、昔体育館だった場所や教室だった部屋に、ぎっしりと積み上げられていたのは壮観だった。
(写真1)
 量だけでなく、種類も豊富だ。高さが50センチ以上は確実にありそうな壷(シンプルなものも火焔型のものもあった)。恐らく糸魚川から運ばれてきたんであろうヒスイが用いられた首飾りなどのアクセサリー。縄文人もこれにお酒を入れて燗をつけて飲んだのかなあと想像させてくれる注口土器。今でもぐい飲みとして使えそうなミニチュア土器。人の顔をかたどった土偶。恐らく狩猟用のナイフ型石器や石斧。いやまあ、何でこんなにあるンだろう、と思わずにはいられないほどのバリエーションだ。三面の古代人たちの(縄文〜弥生時代だけではない)、物質だけでなく精神的に豊かな生活ぶりが想像できて、ひたすら感心する。
 また、それらの土器を復元する学芸員・調査員の皆さんの苦労も、並大抵のものじゃない、と思う。説明によると、土器の復元には、最低でも一週間はかかるそうだ。しかも、「部品」がすべてきちんとそろっている物はほとんどなく、現場から発掘してきた土器の切片をいちいち一つひとつ、ジグソーパズルのように照合しながら組み合わせていかなければならない。それで、どうしても足りない部分は、石こうでかたどって補っていくのだそうで、こりゃ、芸術的センスのないぼくがやることはほとんど不可能な作業だなあ、と驚くやらあきれるやら。
 これだけの土器群が出土する遺跡というのは、まあめったにないだろう。青森や佐賀の遺跡は、今や全国区の「観光地」として人気を集めているが、奥三面遺跡群だって、それらに勝るとも劣らない魅力と貴重さを兼ね備えた遺跡である、と、これを見ただけでも思う。
(写真2)
 で、いよいよ、遺跡の現場へと進んでいく。山奥へ進む、うねうねとした道は、それでも立派に舗装されているのは、ダムの工事のためにたくさんのトラックが入り込むためだろう。途中、横目で、ものすごく大々的に行われている工事の様子を横目で見ながら(=写真2)車を走らせる。梅雨時なのだが、思いのほか三面川の水量は少ない。途中、ついこの間まで人が済んでいた三面集落跡を通過する。今は、かつて人里だった面影をすっかり失い、工事のトラックが行き交う荒涼としたスペースに変わっていた。遺跡調査室を出発して約一時間も経ったころ、ようやく目的の元屋敷遺跡のに近づいたことがわかる。橋を渡ると、その下を流れる川の水の、それはそれは美しいこと。こんな美しい水に恵まれていたからこそ、古代人たちはこの山奥で、それなりの「文化」を形作ることができたのかなあ、などと考えたりもする。
 遺跡群には、約15万6000平方メートルの調査面積の中に、19の遺跡が点在している。その中で、今回見学した元屋敷遺跡は縄文後期〜晩期の遺跡で、遺跡群の中でも特に規模の大きなものだ。
 土器や遺構の出土数は全国でも屈指だそうで、実際、竪穴住居や掘立柱建物、大人の墓である配石墓、水場の跡など、数々の遺構が僕ら見学者たちを圧倒したんだが、中でも僕らの興味・関心を引いたのが、人工的に付け替えられた川(=写真3)。段丘の斜面から流れ出た川は、地形的には本来三面川と平行して流れていなければならないはずが、どうしたわけか三面川に向かって流れていて、しかも護岸工事をした跡もあったために「人工」であることがわかったという。目的としては、集落の水はけをよくするため、あるいは居住域と神聖空間とを区切るためとも考えられるのだという。
(写真3)
 縄文人が自分たちの生活に川を生かすために河川工事を遂行していた、というのには正直驚いた。それだけ、「水」が生活に深い関わりを持っていた、ということが、否が応でもよくわかる遺構だった。ただ、それは現代人のように、自然のありようそのものを無理やりゆがめて恥じないというやり方では決してなかった、とも思う。自然と人間生活とを、どうやって折り合わせていくか、という「ゆるやかな調和」が、この遺跡からは見えるような気がした。
 しかしまあ、これらの、全国でもまれで出土品も遺構も豊富な、歴史的継続性がやたら高い貴重な遺跡群が、奥三面ダムの完成とともに、すべて小体に沈んでしまう運命だというのが、どうにももったいないと思うし、納得できない。もはや、こんな大規模なダム建設は、時代の趨勢から言っても必要性から言っても、全くムダなのではないかという思いが、どうしても消えないのだね。ン十年前の計画を、すっかり社会の情勢や意識が変わった今日に当てはめようとするのは、やはり誤りだと思う。遺跡を、単なるデータだと見るか、それとも、わたしたちの歴史そのものを見据え、それによってよりよい未来とは何か、ということを考察できる大切な空間と見るか。いまさら言うまでもないと思うのだがねえ。

 

 
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